新聞をかえた。一通り取ったが、やはり最終的には日経に帰ってくる。
今日の記事には古都・奈良の記事が。「平城遷都1300年祭」というイベントが来年、開催されるらしい。しかし、奈良県は四苦八苦している。年々観光客が減っているからだ。ピークの85年から90年の4000万人だったのが今では3500万人ほどに下落。修学旅行の減少、社寺頼みだけでやってきたのにも限界が来たのだろう。歴史は、どこまで経済に貢献可能か。というか、建築がどこまで日本人の心に訴えることが可能なのかという感じか。民度が低いわけではないが、物に対して執着がない日本人には、初詣ありきの寺社建築であろうか。ただただサンクチュアリを建設するか否かの議論しかできない。
歴史学などの学問は、そのまま成長の推進力とはなり得ない。それを転換しようという試みも所詮「アート」という枠組みを利用しなければならないし、第一奈良ではそういう試みはあまりないように思う。大仏商法がまかり通ってきたのは単に日本人に経済的余裕があったからとだけ考えるべきであって、これからその遺産を利用して頭を使わなければこれからの時代は残っていけないのではないか。鶏肉など名物を作ろうという動きもあるようだが、その根本を変えていかなければ、県内のホテルの半数以上がラブホテルというただの田舎のような状況は抜け出せないのでは。。

今日など、民法消費者契約法についての記事が一面によく出る。極論の時代からの反省を顧みて自身の生活を見直す態度が多くなっているともとれるし、社会的な改革が起こってきているともとれる。なんしかいいことだ。
それはそうと、今日の朝日新聞の一面は賃貸借、つまり借地借家法の更新料についての高裁の判決。家賃とは別に、これまで暗黙の了解として自然に払われていた更新料を消費者側から意義申し立てをして家主がこれまでのものを返還するよう命じた。今まで当たり前であった「慣習」に疑問符をつけたのだ。これは消費者が頭を使うようになったといえばそうであるし、極めて日本的な「だらだらした」習慣、すなわち当たり前に身を寄せてきた日本人の改革ともいえる。
悪い事をしていたという意識もなくここで大きな衝撃を受けるのが全国の賃貸料で生活をしている地主を管理会社など不動産業界だろう。更新料として家賃とは別に消費者から金銭を受け取っているのは全国に100万件と言われている。私にとっても決して他人事ではない。あまり身が入っていなかった資格試験についても、かなりモチベーションが上がった。これを契機に最適化される社会情勢と自分の能力向上をゴール地点に定めて、走り続けようか。

バイト先の編集者の人(S)と昼休みに昨今の就職状況、企業組織の話になる。
内定をいっぱい取れる人はいっぱい取れて、一個もとれない人はとれないんだよねえ、とSさん。
とりあえず「就活」というものを経験した意見として、あまり使いたくはないが自己分析と企業研究ができているかだ、といっておいた。Sさんの年代とは明らかに違うので、あまり今の現状は当たり前とは言えない。ネットで自由にやるというのは全くない。
Sさんの時代というか今以前の年代の人にとって、ここまでみんなが自由に職を選べるということがない。
自己分析により自分を知り、自分という価値を普遍化、説明化して、それを企業の求めるものと一致させる。それを論理的にできなければ、それは向こうが行いたい面接の最低限にまで至らないことになる。しかしそれだけでいいわけでなく、人柄のよさ、面接官との相性など運と言ってしまえるところもある。
この編集者の方とは世間一般的な話をすることが多いが、今日は中央大学の教授殺害の話から就活の話の流れになったのだが、モンスターペアレントなど、他人に責任を押し付けることから露呈する事件が最近多い。
同年代のいろいろな人と話すことは当たり前だが多い。そのなかで「自分に自信がない」というのをよく聞く。私自身そこまで自分のことに自信があるとは思ってはいないが、自信がないまで考えることもあまりない。
「自信」というのは相対的な自信と絶対的な自信があると思う。相対的な自信の方は単に周りより能力が高いだけでつくものであって、それは本当の自信ではないと思う。本当に必要な自信は絶対的、つまり社会や周りに翻弄されない、関係なく成立する自信。それは自分の過去と現在、未来を知るということではないかと思う。都会で生きる専業主婦も、田舎町のおじさんも、みんな自信をもって生きている。生きるということを楽しんでいる。自分はこういう人間で、こういう性格である。これを言うときにネガティブに思ってしまうことがあるとしても、それは単に視点がネガティブなだけで、重い過去を背負っていたとしてもそれをいい意味で捉えられなければならない。環境が悪いのではない。自分が悪い。
これを知っている以上の自信が必要だろうか。富とか、名声とか、それは相対的であるものでしかない。そうではなく、他人と比較せずとも出てくる人間の価値は絶対にある。それが自信なのではないのだろうか。
それが短絡的に環境のせいにして他人を恨む、ということが結果として表れている社会問題は多々あると思う。
メディアなど、情報の多いいまだからこそそれが見えにくい社会だ。

「公共の場」ってどこからどこまでなのだろう。
「公共の場でそんな恰好してはいけません」とか「公共の場でそんなことしてはいけません」なんて暗黙の了解がみんなのなかにそれぞれあるのだろうけど、その公共の場っていうのはどこにあるのか。もちろん、ここで挙げたものは道路や公園、学校とかどこでも「他人」のいるプライベートではない空間を示している。では、私企業のもつ土地は厳密には公共の場であるということになる。店でもオフィスでも誰でも入れるがそこには制限がかかる場合が多い。それを公共空間というのには少し違う。そこまで「公共空間」といってしまうのは語弊がある。

朝日新聞政治学五野井郁夫さんの記事「路上からの政治」があった。
「路上」で野宿者から会社員、学生、フリーターまでいろいろな人たちが集まって鍋を囲みながら議論をする。最近の議論ではスポーツブランドのナイキが区立宮下公園を借り受け有料化しようとしている問題。私企業が区の持ち物を占有し、企業の論理で空間を統制する。
区も財政に余裕がないのかもしれない。でも、「みんなの場所」が減り続けるというのは自由の場所がなくなる、というか今もなくなりつつある。カフェのコーヒーには「場所代」が含まれているし、それを払えば読書や書き物をしてもいいような風潮があるように、都市の場所はいまだいたいがお金に換算できる。でも、そのなかでは体操とかスケボーとかやってはいけないこともあって、それは企業側が決めること。他の店のものを食べては行けないし、ましてや住んでもいけない。
この問題が大きくなるとどこぞのマンションやオフィスといった営利目的の場所構築になるが、まずはここからの議論が必要じゃないのかな。
路上で起きていることこそ政治であって、永田町が本当の政治ではない。

鳩山総務大臣発言で注目を集めている東京中央郵便局について、建築専門家側からの発言が朝日新聞の文化面に掲載されている。

http://sankei.jp.msn.com/photos/economy/business/080625/biz0806251850014-p1.htm
中央郵便局を一部保存したJPタワーの完成予想図は、同じく東京丸の内に存在するビルと同様の手法だ。この手法は民間の保存と開発を共存させる手法としてある種定着した形。この記事でも銀行倶楽部、日本工業倶楽部、大手町野村ビルが挙げられている。

http://4travel.jp/domestic/area/kanto/tokyo/tokyo/nihonbashi/travelogue/10191394.html

http://www.shimz.co.jp/tw/works/01office/200305nihonkogyo.html
京都工芸繊維大学の中川理氏はこの手法を「アリバイ」とし足し算的な解法だと見ている。「こうやっておけば保存」だということ前面にでている。これを歴史を「生かした」保存というのはおかしいということだろう。
東京大学鈴木博之氏は「物が動く」郵便局の機能性、システムを外観にも表したところに評価すべき点があり、一部を保存するのは何も意味がないという。
といっても先に挙げた例が短絡的だという批判の一方で設計者・事業者側が求められる効率性が変化するなか、かけ算的なデザインの追求はされているだろう。単なるハリボテではなく、効率性の落差をデザインで埋めることこそ時代に変化するための現代の課題でもあるのだから。
もちろん、一つの手法として、特別な都市計画がなされている東京駅周辺では容積率を転売することも考えられる。しかしこれは鳩山氏と郵政の議論の争点にもなっているように、経済的に割にあわなくなる。
ここで求められるのは政治・経済的なことや便宜的な文化ではなく、建築的な新たな解法であろう。近代的な空間構成、価値を取り込み、現代という時代情勢にかなったデザイン手法を提示することが建築側には求められる。
イギリスのノーマンフォスターなどの手法や青木茂氏のリファイン建築を研究してみるのもおもしろいかもしれない。

電車に乗っていると養護学校の生徒の人たちと先生が乗ってきた。
遠足かなにかの帰りらしく、5、6人はいたかもしれない。すごく静かに立っている子、申し訳なさそうに手摺を持っている子、先生と楽しそうに話をしている子。
ある程度の存在感があるのは確かだ。でも周囲の人はそこまで気にしてる様子はなかった。


今日の新聞で、犯罪を犯し、出所した知的障害者を受け入れた施設に報酬を加算する方針が決まった、という記事があった。出所した後も経済的な問題などから再度万引きや置き引きなどの犯罪を犯すケースが発生することを防ぐ意図だという。司法と福祉をつなぐ初の本格的な取り組みであるらしいが、障害のある人を福祉の、社会の手からこぼれ落とさないようにすることには多いに賛成だ。しかし、犯罪を何もわからず犯してしまう人、反省という真摯に自分と向き合う行為をできない人に対して社会が何もせずに、福祉施設に入ればいい、とだけの考えがあるようにみえまいか。
一度犯罪を犯した人が再犯する可能性は100%だということもできないが、0%ともいえない。これは健常者でもそうだが、このことが受け入れる施設の負担になるのだろう。それを利益が出るのなら大丈夫、というのも附に落ちないが、どこかで施設でなく社会に出られるよう支援することはできないのだろうか。
刑務所は福祉施設とは違う。しかし、ここで刑務所は何のためにあるのだろうかと疑問に思った。それは刑務所独自の問題だけではなく、社会全体の問題でもあると思う。裁判など人の内省的な行為が求められるような状況で障害者の周囲の状況が浮き彫りになる。佐藤幹生氏の『自閉症裁判』で、佐藤氏は障害者の特質を理解した上で、取り調べや裁判を行うべきだということを丹念な取材を通した記録を記している。一般的な感覚で全てを判断してしまうのでなく、その人の論理を理解し、こちらからで壁を除いていくこと。それをしなければ、それに見合った罰を与えることもできない。


しかし、冒頭にぼくが感じたように、一昔前と、といってもぼくが生きたのは些細な時間に過ぎないが、今とでは少しずつ状況は変わってきているのかもしれない。
ぼくの弟は広汎性発達障害であるし、小学校、中学校と障害児学級の子どもと触れ合う機会も多かったため、身内に障害のある人がいない人より抵抗はない。小さいときは何かに熱中すると止まらなくなり、家電量販店などで一向に動いてくれず帰れないことなどしょっちゅうだったので、好きなようにし過ぎているくらいにしか思い、どうしたらわかってくれるのかその度に悩まされていた。大きな声を上げることも多かったので周りの目線が気になることはしばしばあった。でも、今となってはたった一人の弟であるし、何かしてあげられる人のうちの一人であると思うので何も苦はない。それに、昔と違い今はすぐにぼくのいうことを理解してくれるので、いっしょに散歩にいくことがとても楽しい。ぼくと弟が大人になるにつれて、いっしょに笑うことが多くなったのはお互いに成長しているということなのかもしれない。
しかし、他人に何か迷惑をかけてしまうことにはいつも恐怖感がある。そんなことには今までなったことはないが、そうなってしまったときにはどう償えばいいか、自分の責任のように考えてしまっていた時期もあるが、最終的にどうすればいいかは今でもわからない。はっきり言って一人で生きていくことができない弟は、どうしたら自立できるのか、反省するという思考をどう教えればいいのか。その答えは日々誰かが一歩ずつ、少しずつ焦らずに教えることにしかない。自閉症といっても怪物のような恐いものではない。単に少し普通とは思考の発達が遅いだけだ。記憶はできるし、新しいことを覚えられないわけではない。

そのことを理解して、無関心を装うのでなく暖かく見守ってくれるような社会になってほしいと思う。

自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」 (朝日文庫)

自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」 (朝日文庫)

週刊 東洋経済 2009年 1/31号 [雑誌]

週刊 東洋経済 2009年 1/31号 [雑誌]

テレビ、新聞全体の広告落ち込み、産経の雇用改革…マスコミ志望者には痛すぎる見出し。が読まない訳にはいかなかった。
しかし、日本理化学工業の大山泰弘氏のインタビューは、知的障害者と向き合うことで成長を見守る決して簡単ではないことをしながらも業界のトップという暖かい記事だった。

『The Atlantic』誌は今週の記事で、『New York Times』紙などの印刷メディアが、予想より早く終焉を迎える可能性を示唆した。
http://wiredvision.jp/news/200901/2009011323.html

世界中の情報を整理し、広告の新しいビジネスモデルを展開するgoogle社。
そのgoogle社だけではなく、各ネットメディアの増加により日本でも「新聞不要」はちらほら耳にする。最近言われだされたことではないが、ネットのその他、特に新聞などメディアに対する影響力は絶大である。確かに、新聞という媒体はおそらく若い人々には多くの場合無関心であるだろう。去年ある専門誌のインターンシップ時に同期だった学生でさえ、最初のニュースの取り入れはネットだと言っていた。

しかし、日本ではまだまだ、新聞の情報の信頼性は高いレベルにある。何百人という記者が現場へ赴き、持ち帰った情報を精査する新聞社は、単なる情報発信をする「媒体発信企業」としての意味だけでは存在していない。

さらに現在の日本のネット上にアップされているニュースは大半が新聞社、通信社提供である。言うまでもなく新聞の情報量は広範であり、それを支えているのが新聞社に勤務する記者たちだ。新聞社がなくなるフリーのジャーナリストも存在はするが、新聞社が抱える記者、つまり新聞という巨大メディア責任を掲げた記者が存在しなくなるということだ。
特ダネ以外の生活に密着したような情報も、この記者たちの範疇である。

おそらく「新聞社」という名前、「紙の新聞」という媒体がなくなったとしても、新聞社は必要不可欠な社会的存在であり、そこに新聞社自体がどうするかはやはり新しいもの、時代の変化にどう対応するかであると思う。