OZ magazine (オズ・マガジン) 2009年 07月号 [雑誌] OZ magazine 2009年 07月号 スターツ出版
「アート」の定義ってなんだ?現代では古典的美術史上で語られる大上段に構えた「アート」からは私たちの身近になっていることだけは確かだ。危険を承知で言えばそれは単に視点だけの存在なのかもしれない。アート作品自体「表現」手段となっていることから、それ自体に生産的な結論はない。ゆえに「アート」自体にも明確な定義など現代では存在しない。
このことは現代使われている言葉にも適応できることだ。「社会」「個人」など、言葉だけが一人歩きしている事例は幾数もある。
しかしここではアートの明確で一般的な定義や言葉自体の曖昧性はおいておくとする。なぜならそれは考えなくても利用され、生産手段として成立していることもあるのだから。
それが特集されている、OZ Magazine7月号。「アートの旅」と題して昨今注目を浴びている地域活性化の手だてとしてのアートを紹介している。ちなみに雑誌の冒頭で編集長はアートを「割り切れることを前提として向き合える、その異界」と表現している。割り切れないもの。生産的な結果のでないもの。
少なくとも私の周りでは有名な越後妻有トリエンナーレやグッゲンハイム・ビルバオの如く美術館という建築が活性化の矢先となった金沢、青森。歴史的建造物など伝統的なハードが残っている横浜、京都。経済という限りなく普遍的な価値を浸透させ、世界の一元化を図る一種の道具の乱発に抗う手段として、どの地域でも活性化にアートイベントなど人の集まる契機をつくっている。それは経済的な「観光」と地域というアイデンティティの平衡感覚維持ともいえるかもしれない。

地域活性化道州制など地域に自律の求められる機会は日本というイデオロギーの一元化が失効してきたころから増え続けている。何かに従属して血流を早めるという価値観がなくなり、島的な自己完結性が必要になる。
そこで昨今話題に上がりやすいアートイベントとは何なのか。ここでは出てはいないが直島など語り尽くされ、行き尽くされた場所とは違う価値がこの特集号にはありそうだと直感的に感じた。それは特集の冒頭、新潟県越後妻有でアートで街を再生しようと試みられたときのエピソードからも感じた。
10余年前、アートで街おこしをしようと試みるも、住人から猛反発をくらったのだという。アートで街おこし、ということも一般的に知られていなかったことや、元々農業中心の保守的な村だったということもあるだろう。しかし次第に公共空間だけでなく民家や田んぼなど私的空間にもアートは広がっていった。ディレクターである北川フラム氏は、アートは都市と地域の差異を知り、関係性を築くための手段だという。人は経済という芯なしでは生きられないし、そのために全てを捨てるということもできない。人間臭さのようなものも捨てきれない。その違いを顕在化し、それらを横断しつづけることによって人生を全うできる、ということだろうか。しかし、それも簡単にできることではあるまい。同インタビューでまず地元の人を説得し、それからアーティストは自然や諸条件と向き合って作品を作っていくと語っている。つまりこれは地元の人、すなわち地域という生活集合体との信頼を築く、ということではないだろうか。大上段に構えたアートを置いただけでそこに人が来るとは限らない。待てば東京の美術館でも見れる可能性などいくらでもある。そうではなくてこの土地で、住んでいる人、つまりその土地を愛している人たちに認められたからこそできるアートだからこそここで見る価値がある。それは東京で食べる博多ラーメンと博多で食べる博多ラーメンの違いと同義である。
すなわち、ここで「アート」とは経済のために犠牲になったために普遍化してしまった都市との対照性を示すため、地域の人びとという土壌を顕在化するための道具だということもできる。そのためには表面的でない、普遍的価値だけに価値観をおかない地元の「ひと」との信頼関係が必ず必要になってくる。みんな来ますよ、では作品は作れない。自分の価値観の表現のためだけに地域と時代性は親和性をもったのではなく、その人間臭い過程を経てこそ人の心に訴えかけるものが創れるのである。
「アート」という言葉、響きだけにどこか反応してしまうことはよくある。しかし、それが何のために、なぜできたのかということを考えれば、それは次第にアートというもやもやしたものからその土地の歴史、そしてその歴史を作ってきた人びとの尊厳を知ることにつながる。

森美術館 「万華鏡の視覚」へ。
視覚、聴覚など五感に響く作品群。本来の見ることが中心の展覧会とは違い、この展覧会では目だけでなく耳や手など、身体で感じる。
ジム・ランビーの幾何学的な模様を施した床の上に、イェッペ・ハインの『映す物体』がある。鏡面でできたボールであるその物体は床の直線を変容させ、空間自体を取り込んでいる。視覚的に変質させながらも中には錘が入っているのか、不安定な動きをしながら移動している。微妙に揺れ動く物体と観察者は微妙な動きの量と距離感を取りながらその物体を観察することになる。そのとき、観察者は常に球体の頂部に自分の姿を確認する。平面と重力だけで動くその物体はどこか小動物が自身の体に合わせて生きようとしているような姿を彷彿とさせる。球面という自分に周囲の姿を変えて映す姿から身体的に伝わってくる不安定感はその物体自体が周囲と関係性を作り出そうとするようにも思える。
オラファー・エリアリンの『投影される君の歓迎』も自律的に空間のなかで動く。しかしそこで重要となるのは光であり、そこを単に鏡が回っているだけである。その鏡から光が観察者に向けられたり、観察者を映し出したりと空間のなかで観察者を相対化する。自律的な要素が相まっているだけのところに観察者の姿と目が突然入り込む。それは空間に入った観察者自体も要素が作り上げるインスタレーションに参加し、観察者自体も作品となることを意味する。相対化された目は単に世界を構成するひとつの要素にすぎない。その目が作品を決定するのではなく、そこには決定者は存在せず、従って作品も存在しない。単に全てのものは万物のシステムのなかで自律性をもった要素なだけなのである。