弁証法(dialectic)とは、哲学の用語で、現代において普通にいわれるときには、ほとんどがヘーゲルマルクス弁証法を意味し、世界や事物の変化や発展の過程を本質的に理解するための方法、法則とされる(ヘーゲルなどにおいては、弁証法は現実の内容そのものの発展のありかたである)。しかし、この言葉を使う哲学者によって、その内容は多岐にわたっており、弁証法ヘーゲルマルクスとして全てを理解しようとするのは誤りである。



形而上学(Metaphysics)とは物理的または概念的な対象が存在する理由や根拠についての問い、およびそれをめぐる議論のこと。

物理学を「対象の振る舞い」について考えるものだとするなら形而上学は「対象が存在する理由」を問うものだと言える。「りんごが落ちる理由」は物理学で説明出来るが「りんごが存在する意味」は物理学で説明出来ない。このような問いかけを形而上学的だと表現する。
また形而上学は哲学の一部門であり、物理学や心理学や脳の生物学といった自然諸科学に、あるいは神秘主義や宗教や精神的主題に関係付けられる。 存在、実在、普遍、属性、関係、因果性、空間、時間、出来事、その他諸々の諸概念が、まさにそれに基づくところの現実性の基礎的本性に関する、最も根本的な概念や信念の研究として概略的に定義される。
形而上学を定義することの困難の一部は、何世紀も前にアリストテレスの編者によって、西洋の哲学者たちが最初にその名を受け取って以来、変化してきた非常に多くの領野の内にある。根源的に形而上学的と考えられなかった問題が、次々に形而上学に加えられてきた。何世紀にも渡って形而上学的と考えられていた他の問題は、概して現在、宗教哲学心の哲学、知覚の哲学、言語哲学、科学哲学といった、その独特の分離した副次的主題へと追いやられている。形而上学の部分と、ある時代または別の時代に、考えられてきた全ての問題について考察するには、非常に長い時間が要求されるだろう。
核心的な形而上学的問題と呼ばれうるものは、常に形而上学的でないと考えられたことがない問題である。そのような問題はたいてい、一般に存在論の問題、「存在としての (qua) 存在の学」である。
別の哲学的伝統は、西洋の哲学的伝統におけるそれよりも、形而上学的問題の非常に困難な概念を持っている。例えば、道教、そして実際多くの東洋哲学はアリストテレス形而上学の最も基礎的な教義のいくつかを、完全に拒んでいる。今では、西洋哲学においてはもはやほとんど完全に内面化し、疑いの対象になることはほとんどないが、しかしヘーゲルの論理学のように、アリストテレス形而上学の多くの反対者は西洋にも現れた。