寮に帰るといつも入り口でネコが座っている。いつも何ら変わりなく、どこか虚空をじっと見つめながら。
私はこのネコに一度も餌をやらない。その軽い行為の責任の重さをとることはできないから。
最近、気になることがある。私の部屋は寮のなかでも奥まったところにあり、私と私の目の前の部屋に住んでいる学生以外は廊下の突き当たりまでくることはないにも関わらず、ぽっと部屋を出ると、そのネコがそこに座っていることがある。向かいの部屋のドアを背に、私の部屋の方を向いて。いつも話しかけたり撫でたりはしているのでただついてきてしまっただけなのかなと思って気にはかけていないが。
今日帰ってきて風呂上がりに外へ出ると、また目の前にネコがいた。今日はたまたま、そのネコを写真に収めようとしていたのでちょうどよい、とカメラを構えているとネコは入り口の方に向かい出し、レンズには目もくれずに行ってしまった。とりあえずついて行こうと後を追うと、ネコは入り口を出て光の当たらないコンクリートのスロープに座り込む。フラッシュを焚くのも億劫なので少し黙って見ているとケホッという小さな音とともに何かを吐き出した。牛乳のような、ヨーグルトのような、液体と固体のあいだのようなもの。
私は何か悪いことをしたような気分になった。このネコは体調がよくないのだ。もしくは腹をすかしている。そんなときに私は気楽にも写真を撮ろうとネコに迫っているだけだった。
小さく役に立たない頭で考えた。野良猫で、住み着くからといってそんなことは言ってはいられない気がした。ひとつ、命が消えるかもしれないなどと、今思えばいかに自分が混乱していたかがわかる。
結局、猫を飼っている友達に電話をして、何か悪いものを食べたのだろう、という結論に至った。私は人間が食べなくて胃液を吐くのと同じシステムだと勘違いして何か食べさせないと、と思っていた。住み着く、住み着かないの寮における損得など、考える余地もなかった。ただ、目の前のネコを、助けようとしていた。
さて、このことはいいことなのだろうか。野良猫の命か、寮の衛生か。こんなことは大きい小さいに関わらず社会のなかで個人が生きている限りどこでもいつでも起こっていることだと思う。
もし、私がネコに餌をやるとしたら寮の衛生は不安定なものになるかもしれない。逆に餌をやらなければ死んでしまうかもしれない。もちろん、実際はそうではないのでこの仮説は成立しない。しかし私はケビン・カーターの「ハゲワシと少女」を思い出した。最終的にケビンはこの少女を見捨てたわけではないが、このような写真がジャーナリズムの世界では評価されることを疑問に思っていたのが爆発したのか、自殺した。この写真によって起こされた議論は「報道か人命か」、つまり社会的評価なのか目の前の人を助けることなのかというどこかジレンマを帯びたものだった。
このことに答えはないのかもしれない。しかし私は生きている以上、自分のこの感情を抑える理性を持てるのかが自分に疑問でもある。



今日行ったオープンハウスの二つの事例も、この二項対立にきっちりとは当てはまらないながらも同じようなこととして見えた。それは野暮ったく言うと革新と保守のような関係でもある。どちらも満足させる、というのはできるものなのか。建築において。そして人と人の関係を築くデバイスとして。