リノベーションから見えてくるもの

「B面からA面にかわるとき」刊行記念 長坂常トークショー ×中山英之+西澤徹夫 @青山ブックセンター・カルチャーサロン
今回発刊された「B面からA面にかわるとき」のA、Bという表現は元々シェアオフィスで仲間内の言語として使用されているものだという。レコードにおけるそれのように売れ筋であるA面と純粋に作者がいいと思ったものであるB面。「sayama flat」において、スキーマの名前で出していいか悩んだ際、このB面という表現を使うことにした。

「sayama flat」ではLDKの社宅を自ら現場で解体していくことによって「切断面」を再発見していく。明るくしたいという単純な欲求で壁を取り除いていくうちにみえてきた方法だ。部分的にもきれいにしたらよく見えることなどの発見もあったという。

「奥沢の家」は「ヨーロッパやアメリカ的なものがいい」という常識をうちやぶるべく方法論が発明されている。「フロッタージュ」を利用しレンガタイルの外壁に薄いレイヤーを重ねて過去を更新し、「トレース」することによって突き出していた回り階段を直階段に修正したのを、隣接する開口をそのままにしておくことで他人にもわからせる。それは作家性ともいえる感受性であり、過去を共有するための公共性への「愛」の手段であるともいえる。

中山氏は最初誰の作品かも知らずに「sayama」をみたとき、明らかにA面だとおもったという。そして岡田の演劇を補助線として挙げる。「演劇のなかで泣く」という予定調和ではなく、「これから演劇をやります」と前提をつくっておいて文脈を明確化する意図した文脈の変化はそのものの見方を変える。

西沢氏はデュシャンの「モナリザの髭」と高山の銀座の掃除を挙げる。モナリザに髭を加えて展覧会に出し、次の展覧会ではただのモナリザに「髭をとったモナリザ」というタイトルで展覧会に出品、この作品を見た氏はそれを単なるモナリザではなく髭をとったモナリザとしてしか認識できないという。銀座においてはマンホールや消火栓などみがくだけで空間の質がかわったと感じるのだという。

「sayama」や「奥沢」において共通する方法は既にあるものをマクロに否定するのでなく、ミクロに現場をみつめることからはじめているということだ。それは閉じた部屋に閉じこもって考えていても目の前のできることは見えてこないことを批判している。現代、大きな枠組ではあふれるほどの物が存在し、世界はまるで止まっているようである。今までは0からある方向に進んでいた時間軸上の終着点で新しい方向を模索するためにいまある現実、つまり過去の履歴を受け止めることが行われている。

「sayama」においてふすまのフレーム、キッチンの板、配管に細分化し、和室やリビングといった既存の文脈をなくすことで箱と独立した要素だけにする。建築上の要素が細分化され、並列化することで世界観を決定することを回避するのである。「sayama」においては家具と建築、奥沢においては新と旧が同レイヤー化される。家具と建築の限りない融合である。世界観を押し付けることなく結果を生み出さない停滞的更新ともいえる。

議論は「公共性」に移る。
長坂氏は身近なところから変えることでそれが連鎖して広がっていくのではないか、ビルの一室であった事務所でいたときとまちの現実がみえるいまの事務所、happaに移転したいまとの変化を交えて語る。日本を違う国にするかのように考えても広すぎて傲慢ではないかと。
匿名的にしないB面と仲間はずれをつくらないA面。長坂氏はどちらか一方に拠ることなく公共性にストップをかけるデザインをしていると中山氏は評価する。「気持ちいい空間だよね」といってそれをそこら中につくればいいということではない、と。
確かに、氏のフロッタージュ、トレースといった既存建築への方法はどこにでも援用可能であり、それぞれの個別的更新を可能にするかもしれない。イデオロギーの広がりから文脈を含んだ形への昇華は建築だからこその価値でもある。