まだ昨日の余韻が残っている。「思想地図 vol.3」のシンポジウム藤村龍至氏が「建築は政治だ」といったことがまだ頭にある。
建築は政治である。そうともいえる。中国でのオリンピック時の建設ラッシュやスターリンヒトラーなど、建築を意識した政治家は主に社会主義国で活用されてきた。大きなものに感じる人の高揚感や恐怖感は一限りなくあるだろう。そしてそれをつくる思考の段階においても、建築は影響力というか応用力のようなものをもっている。建築学科を卒業しつつもこれを活かして社会で活躍している人も多いだろう。
そういえばドイツに住む友達が小さなことで契約書を書く文化を初めて体験したときは驚いた、というようなことを言っていた。これは昨日の濱野智史氏の経営環境論の話にもつながるが、契約書というのは2人またはそれ以上の人が一つの事柄に同意する、という意志表示だ。契約をするためには事によっては多くの時間と議論を要する。逆にいうとこれは議論のアウトプットとしての書であり、個人主義的傾向の強い海外の国では互いの意見を知るための便利なものであるともいえる。それに対して日本人は契約という言葉に対して一定の距離がある。そこには「みんな同じ」と思う精神性ようなものや遠慮することに美学がある。しかしそれは海外から見ると自分の尊厳を第一に思わない不健全な傾向にもみえるだろう。
ずるずる、ぐだぐだと隔たりなく周囲となじむ日本人。「みんな同じ」「村八分」など島コミュニティをつくりやすい文化でもある。自己主張が弱い日本人とはよくいわれることだ。結局、自分の置かれている環境に違和感を感じつつもそのときそのときを流してしまう。一つひとつ追いかけない。

昨日の「開放的に」設計された議論は一つの方向性を示唆していた。それはもちろん藤村氏に同意しろ、というメッセージではない。ブログに何か書こうとする、しぼるようなコントロール。当人はそんなことも意識しているかもしれない。主張をはっきりとさせ、日常的に文章を書くことは、自分の思考の昇華、そしてそれを「誰かが見る」ということの緊張感を生む。潜在的な他者は自分を客体化し、自律へと導く。
藤村氏は明らかに教育者であり、ジャーナリストである。建築という統合的と同時にMVRDVの「ピッグ・シティ」のようにマス・メディア、そしてマニフェストとしても機能することを自覚し、「都市における」ストラテジーを構築している。
スピードとクリエイティビティをクロスさせ、社会に役に立つものをつくろうとする態度には同意できる。

しかし一方で、氏が批判する情報技術を受け流し時代と対峙しない態度、個人的内面を重視、建築化する態度を、私は否定しない。おそらく建築家、難波和彦であったと思うが、自身のブログで「エコロジー」というテーマの課題に対して学生が「エコ」という言葉をひねってひねって観念的に考えてくる、というのを読んだ覚えがある。かなり以前の話だと思うが。これはとても批評的な一言だ。つまり、より実務的、科学的な「普遍性」からの離脱。社会に大きな希望が見えず、社会を裏で支えているインフラなどが限界に達した現代において、頼れるものは自分の感性、らしさだけだという意味合いもあるだろう。ここまでなら藤村氏の批判もわかる。この状況は一覧性のある新聞と比較して自分の興味のある言葉の連続を促すインターネットという道具とも相まって社会全体で人と人の関係が崩れるような事件が起こっている。
しかし、このような閉塞な状況が社会的に起きているいまであるからこそ、超線形プロセス論、批判的工学主義のような社会全体が向かっていく方向を示す大きな理念も必要であるのに加えて、さらに自分の内面を見せ、公共性をもたせる努力をすることで身の回りの「共感」を生み、他人を尊重し、自分の尊厳を知ることも必要なのである。そこで培われる深いつながりを軸に自分の世界を広げていく、「小さな幸せ」を発見し、紡いでいくことも建築にはできるはずである。

NHKブックス別巻 思想地図 vol.3 特集・アーキテクチャ

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建築の四層構造――サステイナブル・デザインをめぐる思考 (10+1series)

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