池上氏は、東大教養学部の教授であるが、音楽家渋谷慶一郎氏などとのコラボレーションすることによってアート活動なども行っている人物である。氏はセッションの冒頭で荒川修作を挙げ、建築することによってそこにある主体がどう変わるか、天命ではどのようにして空間と時間を破るかと建築との接点を述べた。そして、近年のアート作品として、渋谷慶一郎氏との「filmachine」などによって、アート作品としての実験を提示した。また、Neil Spilarのplectic architecture、つまり複雑と単純の絡み合いを挙げ、空間と時間の対称性を破り、そこから建築、言語のあいまいさをさぐることを提示した。

李氏の冒頭のプレゼンテーションは、pingpongの「集合知におけるデザインは可能か?」というデザインにおける知の構造化への実践について。意匠など今までデザインとされてきたものを「前期デザイン」とし、内部観測があって成立するデザインを「後期デザイン」として、人間の行為をよりよい形へ導くものを定義する。経験知を形式知にする方法として、大量のログの中に嗜好性のない言語が多いtwitterを通じて行為を収集、行為を抽出する。そしてそれを可視化するために行為の場所を地図上にプロットする、というもの。今まで行ってきた実践的WSには、多摩美術大学図書館とデザインタイドのものがあり、来年にははこだて未来大学での予定があるという。行為の集合知でしか持ち得ないものがある、という仮説を立て、多摩美では「つくる図書館をうごかす」。学生がルールを書き出し、フィードバックし、「導線を広げる」ことをテーマにデザインを行った。デザインタイドでは「この作品でこのようなことがしたい」という意見をリアルタイムでインフォメーションマップに提示する。意見が多いものほどビジュアル的に大きくなる。最大の特徴は建築のプロパーではなく、設計手法をつくる、ということか。
藤村氏は「超線形設計プロセス論とその応用」と題し、「UTSUWA」と「BUILDING K」をプレゼン。「UTSUWA」を例のごとく説明し、形式化した「ジャンプしない 枝分かれしない 後戻りしない」ことを確認、「BUILDING K」では吊構造、設備のプランニングを中心に説明を展開し、最後に教育のおける実践を紹介した。メンテナンスの有利さ、室外機で上昇気流をつくることによってヴォイドスペースのショートサーキットを防ぐことは池上氏のところの学生からは珍しいかったことがtwitterの意見から窺える。そして「BUILDING K」において「1.固有性をより正確に読み込むことでそのときの条件を正確に反映する 2.複雑性の構築として一つの形が多くの意味をもつ 3.スピード」という形式を提示。いつも通り内部空間についての言及は控えたプレゼンテーションだった。また、松川昌平氏からの反論として選択が恣意的であるという指摘を受けたといい、バリエーションを全て出し切り淘汰する科学よりも共有可能性を優先していると反論している。
休憩を挟み、濱野智史氏が到着、ディスカッションが開始。
まず池上氏が口火を切る。他分野の人からみると、「超線形設計プロセス論」は当たり前にみえる、といきなりの壁に激突。建築界の閉じて曖昧な説明が難しいところをつかれる。また、荒川修作の建築、ランドスケープにおいて、人間のアルゴリズムを引っ張るものに魅力を感じているという。今の「住む」ということに懐疑的であり、おもしろくないものをつくる意味があるのか、と。渋谷氏とのコラボレーションの場合にも「こんな音でいいのか?」という疑問が出るほどだったが、後々はそういうことほど鮮明に記憶に残る、アートにとって居心地の悪さをつくることはよいこととされることを説明。微細に人間のアクションを喚起する複雑性についてどう考えているか、住む人が格闘できることがいい建築なのではないかと質問。
この質問にはさすがの藤村氏も少々困り気味のようだった。今回のディスカッションはこれが主題として尾を引くのであるが、ここに池上氏の質問における「時間」と、藤村氏がプレゼンした「方法論」としての「時間」に齟齬があったことは明らかだった。といっても、建築学と科学の専門性の高い二人が交わすディスカッションといえど、その深層を共有するのはそこまで簡単なことではない、ということであろうか。
池上氏の言う設計における空間、時間の設定を竣工時に置くのか、建築のもつアルゴリズムで人間をどう扱うのか、という意図をもった質問は、飽きないものを良しとするアート的、ひいては「現代的」建築的といえる。それに対して藤村氏の提唱する「超線形設計プロセス論」は「社会」に対する建築認識の共有可能性であり、場所、クライアント、近隣住民など多様な人間を巻き込んで設計していくという、誤解を恐れずに、近代建築的にいえば建築の周辺的な議論である。「BUILDING K」の住居部分において藤村氏の意向として自分の感覚が入り込んでいる、という一つの返答はある意味では当たり前のことであり、建築のもつ時間によって池上氏のいうようなアート的なことはできない。それはなぜかという質問であったのであろうが、そこには賃貸であることなど社会性が多いに含まれているからだ、ということになろう。そのギャップにここで戸惑うのは当たり前である。
しかし、最後に藤村氏の「デザインのことしか考えていなかった」という反省を込めたコメントには、現状の方法論と利用する人間をどう描くか、という建築的主題に向かった建築論へのブリッジを考えなければならない、という意図も見える。
最後にメタボリズムの空間の商品化に対するコンセプトを表現としてしまった過ちを説明することで議論は収束したような感じにはなったものの,まだ,これからも議論が必要そうだ.


togetter