・共同住宅について

「新築主義」「nLDK」という2つの固定観念に覆われた現代の共同住宅事情は、いつまで続くだろうか。おそらく、この2つの観点はこれからも一つの尺度としては残るとは思う。しかし、そこに当てはまる家族が消滅するとまではいかなくとも、供給過剰感のある共同住宅業界は少し視点を変えた動き方をしていくべきではある。
別にぼくは芸術的な作品としての建物を作ろうとしているわけではない。むしろ、デザインの善し悪しなど他の誰でもなく入居者が決めるものだ。そこを掬いとって設計しなければ、目的としている数字にも届かない。固定的な人間、社会の見方では数字は追いつかない。「現在」は、結果と方法が直結する時期では決してない。これをやれば儲かるであるとか結果がでるというのは明らかに破綻した論理だ。

自然の淘汰としてアパートは減りはしないかもしれない。しかし「安さ」というしがらみから抜けて空間的豊さを求めるようにもなるということではない。つまりおもちゃみたいなCADで建てられる大量生産品があり、かつ絶対的に減価償却を伴うことはそのループで自動的に進んでいくところもある。
地主のネガティブな動機によって生み出されるアパートが多いことは確かであって、相続税の試算からアパート建設、評価額を下げるというのは業界では王道パターン。税金と減価償却があるからこそ成り立つビジネス。そこから脱却するという意味での制度改正提言は必要かもしれない。減価償却自体は新築への絶対的な評価である。しかしそれがそのまま新築、中古っていう価値観というか今中心になってる状況がおかしい。新築、中古は付加的なものにすぎなくて、リノベ事例のどれをつくるか、どういうものにつくるかを当たり前に考えられるようになればいい。また、リノベされたものが経済的にはどれだけの評価を得る事ができるのか。それは銀行の融資などを参照すれば一目瞭然。融資はでない。
時間の販売。生きることの積極性を受け入れる住宅は、分譲では固定し、戸建では完結的すぎる。賃貸であれば建築がもつ価値観を感じることにリスクはなく、アパートであればコミュニティの中の個人を受け入れられ、半社会化する。状況、生活を時間として解釈してその対価を得る。それが賃貸住宅を建てる者のビジネスモデル。人生に関わることの意義を知らなければならない。