早春 [DVD]

早春 [DVD]

アカルイミライ 通常版 [DVD]

アカルイミライ 通常版 [DVD]

人は他者と共に生きる。それが社会、都市に属すということだ。地縁、家族、隣人、仲間。そのフィールドとなる建築、都市は良かれ悪かれ必然的にその関係性を内包し表出する。
 「東京」の歴史的ドキュメントとしても機能するこれらの映画に、「東京」すなわち資本主義経済とその周縁の縮図の中のコミュニティ、都市の変遷がみられる。
 戦後10年が経過し、徐々に発展を遂げる丸の内周辺はモダニズムの箱が建ち並び、その完結性、自律性の「完璧さ」の象徴の中で人は働く。その結、自律性は資本を生み出す基盤となり建築となり社会に還元される。一方でその働く人々が地に着く場所、郊外には緩やかな境界をもつ民家が建ち並ぶ。そこには隣人などとのコミュニティが垣間見られる。曖昧な境界による個々の部分は常に関係性を保ち、その集合として都市を形成する。職住の乖離によりできた大きな差異。この都市の表層が暗に意味することは人間関係の密度の差異でもある。中心部の目的は資本、郊外の目的は生活である。このことに比例し建築は自律性を左右され結果都市は関係性を失った。
 この物語の時代から40年余りが過ぎた頃でも、東京はまだ変わりつつある。資本主義、交通、情報の発達により都市は宙づりにされ「どこにでもある風景」を生み出す。同じ箱の中にいたとしても直接的な関係性は遮断されている。つまりそこには、コミュニティが存在しない箱の羅列としての都市がある。40年前までは「憧れ」とされていた中心都市ももはや「みえない場所」として存在する。
 朝都市が起きだすと感じられていたコミュニティの感覚は麻痺したように固定化され、個室の壁、家屋の塀として都市に表れている。それらは二次的に出隅の空間を形成し人と人の関係性を空疎なものとし消滅させる。そこに登場するのは直接的な関係ではなく間接的な関係である。モノ、情報を媒介とした間接的なコミュニケーションはさらに場所を無意味化し一般化する。
 中心から侵蝕してきた個々の自律性は間接的コミュニケーションを促進すると共にその媒介物への固執を大きくする。この個人 - 媒介 - 個人の構図が強まれば強まるほど、いやもう既にその時点で「場所」は無意味化されている。そこに必要なのは記号としての地名だけであり、かつて記号として存在した建築は場所に根ざすアイデンティティを獲得できずに「どこにでもある建物」として建て替えられる。そこで関係の中心となるのは場所や建築ではなく人と人の間の媒介となるものである。

 人間中心の都市と人間の介入ではなく人間同士の媒介によって成立する都市の記録。そこにはあるがままの都市が描かれていた。物語としての中心は「人と人」から「媒介を取り巻く人々」に取って代わる。そこが同じ地層を積み上げた同じ「場所」であるにもかかわらず、場所は場所ではなくなり人はそこから離れていった。
 しかしそうやって人は失っていくものを見守るしかない。クラゲが東京湾へ流れていくのを見守るしかないように。