「建築をつくることは未来をつくることである」
横浜国立大学大学院Y-GSAのテーマとも言える表題。この抽象的な表現は様々なことを想起させる。人があるところには必ず建築が存在する。これからもそうだと思う。それは逆説的に建築の存在が人を存在させるということである。その建築の存在がなくなるとき、人もなくなるか。いや、それはないだろう。建築は人が作り出すものだから。それが今コンバージョン、リノベーションと呼ばれてるものだ。
ではなぜ、先人は廃墟を描いたか。建築の竣工のドローイングとともに描かれたその終焉を示すドローイングにどういう意味があるのか。近代以前の西洋、すなわちまだ建築工法として組積造の主流だった時代、建築が建った以上、建築はその場所に半永久的に残るか破壊されるかである。また、1968年という象徴的な年に開催されたミラノ・トリエンナーレにおいて、一枚のフォトコラージュをもって磯崎新は「未来都市は廃虚である」と予言した。「バラ色のユートピアしか描きださない近代的都市計画を批判」するものとして廃墟を提示したのである。

そこには、未来を思考する建築家の姿がある。建築をつくることは、未来を思考することであり、その表現こそが、廃墟のイメージとなっている。現代において、この終焉を思考する行為が必要なはずである。リノベーション、コンバージョンは明らかにその時間の過程においての延命措置であり、その建築のDNAだけは継続される。その集積となる都市にはDNAだけが残り、表層だけが操作された都市となっていく。このことは、地球環境問題の前ではかなり大きな効果があるだろう。しかし、DNAと相反した建築的側面の継続に、何の意味があるのだろう。

保存運動や修復技術の高まったこの時代に、終焉を研究することにどんな意味があるのだろう。それはまさに、サスティナビリティとは全く、いや位相の真逆な思考であろう。技術の発達した現代において、廃墟というもの、廃墟化という事象はただ山奥の廃れた建物を示すだけのものではないだろう。廃墟化という事象は、建築の時間軸的思考を促進し、建築の未来、また都市の未来を暗示、思考する手段となり得るだろう。

その建築家の描いた廃墟という表現を、通史として読み解き、再評価することで、改めて建築の方向性を思考したい。