最大の特徴が、第3の伝統論争である。
1954年のグロピウスの来日に伴う日本の伝統的な建築に対する高い評価や、サンパウロで行われた博覧会での日本館である堀口捨巳の数寄屋と書院からなる建築に対する諸外国からの評価により建築家の中で日本的デザイン意識されるとうになった。その中で丹下健三川添登を中心に巻き起こったこの論争では川添の批評眼が明確に表れている。
それは丹下を日本の建築家が超えるべき頂点として位置づける一方で「民衆の作家」として白井晟一を位置づけたことである。すなわち、伝統の克服と共に近代建築を日本に定着させる上で近代建築が民衆に奉仕するものである限り真の施主は民衆でなければならず、伝統と民衆を切り離すことはできないという川添の中の前提があった。
第4の特徴である新建築問題は価値観の違いを自ら破ろうとし、結果的に破綻してしまった例といえる。
それは村野藤吾による「そごう百貨店」を掲載した際、当時問題になっていたこともあり建築家の商業主義的傾向が疑問視された。編集部は読者にアンケートを試み、批評を求めた。その結果、批判的な意見が多く寄せられ、川添ら編集部は雑誌で批評はしないことを信念としてもっていた当時新建築者社長であった吉岡に解雇される。
雑誌に作品として掲載「させてもらっている」立場としての編集者と、デザイン、都市など広い領域における建築の批評を担う立場としての編集者との価値観の違いが、この問題を引き起こしたといえる。