「ぴあ」の批評性について。
 「ぴあ」は情報誌である。しかし1972年の創刊時からその「情報誌」、という体系に特徴があったのだ。
 雑誌とはそもそも、編集者という立場がある以上、雑誌に対する編集態度があり雑誌側の主体性が表面に現れるのが一般的、というかそれがクリエイティブな仕事のように感じる。しかし「ぴあ」が扱う情報の質は、映画や音楽の素早い公開情報などを発信する今でいえば「東京ウォーカー」である。その理論は今は当たり前であるため気づきにくかったが、ただ単に何の偏向もなくこれから起こる出来事の情報を羅列することは創刊当時はかなり新鮮だっただろう。つまり読者側の主体性を促す媒体として存在したのである。
 情報が単なる「対象」として終わるのではなくそれが「記号」となり次の「パフォーマンス」の主体へと導く。これはただ情報を受けいれ「パフォーマンス」が行われる会場なりに向かうことや現場実況中継のような臨場感をもたらし、「スキャンダル」から読者をおびき寄せようとする論理とは一線を画す。これに対し、都市の中でまだ行われていないものや起こりつつあるものを読者自身が体験すること、つまり雑誌という編成された物語を読むのではなく情報を契機に都市を読むを目指す雑誌が「ぴあ」なのである。これは雑誌という物語側から読者を編成するのではなく読者が物語を編成する読者の主体性を持ち込む、促すのである。