マスメディアとしての近代建築/都市

 鉄道の発達により場所性という特性を失ってしまった都市は、近代人と同様境界のため、つまり他律的行動による仮面をつけることで差異化される。これはクラウスの事件と新聞、ソシュールの音声と文字、そしてロースの建築と写真という「考えられたもの」と「語られるもの」の裂け目を生み出し、結果その絡み合い(関係性)による情報の隠蔽=仮面化(マスキング)が行われる。このことにより非場所化された近代都市空間は体験的な観点から語ることは不可能といえる。つまりこれはメディアから本来的な場所を語ることの不可能性を逆説的に説明している。
 鉄道と同時期に発達した写真も、場所の無化に関与する。ロースのいう「装飾」が建築と表象の違いを偽装することであったように建築のものとしての特性を奪い、雑誌や写真としての商品に変えてしまう。ロースにとって住宅は住人の痕跡を残す、参加するものだったのに対し、ホフマンは住宅は住宅と住人の性格が調和する住人の私的でない社会的慣習の形とした。この比較は、内部と外部の乖離、親密的なものと社会的な空間の乖離を物語っている。この両者の建築に対するアプローチ、メディアにおいて表象されることも対照的である。
 空間に内包されることによって定義され、その境界(メディアに媒体されること)を越えたものによる空間ではないロースの「ラオムプラン」は、全ての感覚、中でも触覚など実態があることが建築たらしめるとすることに対し、縁取りの強調により独立しながらも連続した壁、それら平面の結びつきにより三次元を作り出し、箱が開かれる状態が想起され内部、外部、全てが同一平面であるかのような印象を与えたホフマンの建築は建築をオブジェとし映像として同化することによってものを近くへ引き寄せそうとする大衆の要望に応えてしまったのである。