マスメディアとしての近代建築/写真

カメラ・オブスクラのモデルの図式は、本来は透明な表象である。しかし、ジガ・ヴェルトフはスチール写真において二つの現実の表象つまり二つの物質的痕跡あるいは二枚のスチール写真を重ね合わせ、新たな現実を生産したのだ。ここでは内部と外部、ネガとポジ、あるいは精神分析に置ける無意識と意識、内的心理と外的心理が不可逆に曖昧にされる。

コルビュジェにおける写真の意味、制作過程における写真の位置とは何なのか。
それは第一に、彼の旅行の記録から読み取れる。コルビュジェアルジェリアの旅行において、2人の女性のヌードを描き、さらに品のない絵はがきを購入する。この二点は「他者」の女のフェティスティックな鑑賞のお決まりの方法である。しかしコルビュジェはこのスケッチを何百枚と生涯描き続ける。それも「アルジェの女たち」の人物のポーズを徐々に自分のスケッチの人物に合わせながら。本人が「カスバの女たち」と述べたこのスケッチはモニュメンタルな形態のコンポジションのための準備スタディだったのだ。
この絵はがき、写真の後に描くことは写真に入り込む、見たいものを見るための過程である。フェティシズムは主体を統合するために表象にへばりついた、信じるという行為から、知るという行為を分離するものであり、写真はフェティッシュ化された対象である。我々は二次元を見ているのを知っているが、三次元を見ていると信じている。これを描くということは、写真に入り込み、その空間や都市を植民地化し、再領属化することである。さらにコルビュジェは、広告などの写真をピュリズム的に描くこともしている。マス・メディアの写真というのは、意味を持っていないようで撮影され、選択され、組み合わされ、構成されている。それを彼は少ない線(ドローイング)に還元することで再構成し違った文脈に再利用しようとする。これはメディアという消費に対する抵抗だ。

コルビュジェは建築と写真の表象の違いも指摘している。イタリアを訪れた際、そこで見た建築は写真に反映しなかったと述べているが、ホフマンの写真と空間の明らかな違いで、どんな建造物も仮面に過ぎないと語っている。この経験は、職人術との別れをを促した一方で、印刷メディアがそれ自身で論理を持った文脈をもったことを気づかせた。つまり、制作者から制作物が生まれるという古典的概念とは別個のものとして複製物が生産者と生産物の関係を解体し、消費社会における生産をマス・メディアを中心に行っているのである。

コルビュジェにとっての建築とは、概念の領域で解決されるコンセプチュアルな事象であった。それは自身の実現した建築写真をピュリズムの美学に近づけるため修正していることに表れる。特に敷地までも消去することで敷地から相対的に自律したオブジェに建築を変えた。さらに全作品集に掲載されているサヴォア邸の断面図は実際に建てられたものの図面ではなくプロジェクトの初期のものである。つまり、制作途中の記録は何であれ、コンセプトに近いものの方が実際のものよりも勝っていたのだ。
これはコルビュジェにとって建物が最終成果物でないことを表している。つまり、写真とレイアウトの間にもう一つの建築を作り上げる、コンセプト、建物(建築)、写真、そしてその複製という時系列はまた概念に回帰する。

エスプリ・ヌーヴォーにおいてコルビュジェは広告を担当していた。その広告は同時代のローカルチャーである。しかし、彼はこれをコルビュジェの写真や美術書と混在させる。これは彼の住宅写真んい自動車が映ることが多いことととも関係している。この場合、この写真が表しているのは現代的生活をつくっているのは車なのか住宅なのかわからないということであり、テキストを構成しているのである。これを彼はイメージの力としてレイアウトにも使用する。つまり、イメージの重ね合わせ、イメージと文章の重ね合わせを通して生じる観念の連合である。このために彼はもともとの文脈から引きはがすためにディテールの消去、再フレーミングを行う。パルテノンの写真からわかるように不完全で失われた部分を引き戻そうとするように、ハイ・アートの文脈から関係を絶ち、断片化させ選択し、組み合わせ、再構成することでメディア文化の経験に対応する断片の衝突を示す。

ペレの垂直窓は遠近法的な深みを一度に受け入れ、風景を完全な空間の印象にする。これは古典的な絵画がイメージをそのモデルと同定させることと同じである。写真と遠近法の認識論的な違いは、絵画すなわち遠近法は観察者の目が現実であることに対してカメラは焦点がないことである。
これはすなわち、窓は風景を純粋に視覚的なものにする。記憶によってそれが風景だとわかるのだ。一方でピュリズムはそれとわかる形態やイメージから成立し、対象そのものは組み合わせほど重要ではない。各々の事象の価値は他の事象との対立によって定まり、遠近法とはその構造が異なる。そしてこれをはっきりさせるのが水平窓であるとコルビュジェはいうのである。人物が描かれるとき垂直窓は身体にフレームを授ける、すなわち窓は身体となる。しかし水平窓の場合身体の一部であり代替機械、人工的な手足である。タイプライターの普及で国際規格つまり標準化が確立されたのと同様に「人間中心主義の」標準化が窓によって行われるのである。
コルソーのヴィラの窓は、分割された水平窓である。この窓の枠は、湖を横切るボートを別個のショットとしてフレームする。このショットは止まることなく遠近法のように決して物象化されない。これはつまり、空間の無限性と身体の経験の対比に関係しているのである。