研究室に行くと、修論を執筆してる二人の先輩に会った。
扉を開けると先輩はいつものようにあいさつをし、いつものようにパソコンに向かって作業していた。この至って当たり前の学生的風景はぼくがいままで見てきた風景と至って変わらない、日常的で、非生産的で、意味もなければ理由もない、クリスマスという記念日的な意味もない。
23年間生きてきてこのクリスマスの風景と言うのはあまり変わってこなかった。
ぼくは今まで、学生をしている。学生をしているというのはまぎれもなく社会的に能動的な働きをする立場ではない。社会を受容しながら生きている。
それは渋谷にいってもかわらなかった。いつもと違うものが売られている、それだけの話。しかし、これから先、就職するとそんな日常における差異は今以上になくなるのだろう。それは企業という社会を支える組織の人員になるからで、極論遠回しにクリスマスを支える存在になる。といってもクリスマスを楽しめなくなるわけではないが、クリスマスという世界的なイベントを利用し、消費の活性化に参画することになる。

クリスマスとは、イエス・キリストの降誕(誕生)を祝うキリスト教の記念日・祭日である。「神様が人間として産まれてきてくださったこと」を祝うことが本質。日本でクリスマスが受け入れられたのは、1900年(明治33年)に明治屋が銀座に進出し、そのころからクリスマス商戦が始まったことが大きな契機であった。
1928年(昭和3年)の朝日新聞には「クリスマスは今や日本の年中行事となり、サンタクロースは立派に日本の子供のものに」と書かれるまでに普及していた。
ベネディクト16世は、『現代の消費社会の中で、この時期が商業主義にいわば「汚染」されているのは、残念なこと。』と発し、降誕祭の精神は、「精神の集中」と「落ち着き」と「喜び」であり、この喜びとは、内面的なもので、外面的なものではないとしている。

本家からはこのようなコメントが出るのはわからんこともない。だがやはり、クリスマスを祝えるだけの余裕は資本主義社会からの恩恵である事は間違いなく、そのようなノスタルジーを支持しても何も始まらないだろう。

夕方行ったコールハースのDVD上映会もイヴということが一つの理由になっている。このことがどこまで意味があるかは分からないが、資本主義を単に否定しないスタンスを持つコールハースの全体像が把握できるいい作品だった。
夜行バスで大阪に帰るため、五十嵐さんと藤村さんの対談を最後まで聞く事はできなかったのだが、藤村さんがコールハースの全体像を前にどこまでビジョンを示したのかが気になるところだ。