ぼくの故郷といえる場所、西宮。人口4万8千人近くの人々が暮らす地方都市の一つ。その市の中でも大きな拠点の一つである西宮北口、そこに大きなショッピングモールができた。この大きな施設ができることは以前から知っていたが、既に駅と接続した大きな商業施設があるにも関わらずまた大きなショッピングモールとシネマコンプレックスができることには疑問があった。西宮球場という阪急の持つ土地が余っていたとはいえ、この不況に大きな消費を生み出す可能性があると判断したのか、それとも一時的な地元企業救済のためのための建設事業だったのか。

都市単体の能力が重要視されることになるであろうこれからの時代に、大阪駅三宮駅のちょうど中間地点に位置するこのベッドタウンではどのような解決方法が施されたのかが気になった。アジア都市の能力にはやはり、観光などを視野に入れたアイデンティティを打ち出していかなければ市民の消費だけではどうしても限界が出てくる。

しかしここでの解決方法は数年前から問題にもなっている郊外化と同様の失敗がみられる。特に期待して訪れたわけではないが、地元というぼくのなかで大きな存在である場所が方向性を失っている事にいい感情は湧き出てこない。

その新しいショッピングモールは前述の通り郊外都市のモールと同様のパラダイムが使用されている。つまり、3層に渡る大きな吹き抜け空間の周囲に店舗が並ぶ形式。ここではさらに球場の平面形態を踏襲してかそれが環状に無限ループの形式になっている。始まりと終わりのあるような動線よりも時間を忘れさせこの空間内に留まらせる手段としては敷地を活かした形態であると、まずは言える。しかし、多少の変化はあるとはいえ、どこにいても同じような空間が続けば、どこにいるかわからないなど客の不安を煽ることはいうまでもない。しかもどこも同じようなもので都心にいけばどれも手に入るものばかりの店舗が並び、「モールの中に陥る」という心理状況はどうにも拭いきれない。街路の中央部に配置された家具のみが通路によって多少の差異を表すだけで、他のインテリア要素−床、家具など−はどこも同じ均質な状況である。
その街路と街路の接点ともいえる大きなエスカレーターホールとなっているアトリウムでも同様である。

均質な空間について、今語る事は少ないかもしれない。しかし、経済と空間の力というものの妥協点をどこかで探さなければこの都市の将来性から日本の各地に広がる地域の力が失われてしまう。それは空間だけでなくソフトとして建築内に存在する店舗の種類においても、この西宮という都市に資本を投下しようという市民の意識を促そうとしていることも感じられない。

道路を挟んだ向かい側の敷地には、甲南大学のキャンパスが建設されている。都市における中心となる駅前に大学を誘致するというのは、新入生獲得の他にどのような恩恵をこの地に落とすのか、学生という若いエネルギーをどう捉えているのかは今後の発展に期待するしかない。

  

この施設の最上階に、この西宮球場の歴史を展示しているスペースがあった。この施設で唯一アイデンティティを表出する場所である。
ある事自体は間違いではない。しかしここに収めてしまうのであれば買い物をしている時にも住んでいる場所のことを知れるきっかけとしてあるべきならば、最上階の人が間違えてしか来ないようなところにべきではないと思う。


この西宮でなくともどこでもある施設に、一つだけでも可能性を見いだすのであれば、この屋上。
親はこの写真には写らない遠くで談笑している。地上のレベルは車ばかりで安全ではない都市の中で唯一子どもが思いっきり遊べる場所だった。