1995年以後~次世代建築家の語る建築 1995年以後―次世代建築家の語る現代の都市と建築/藤村龍至、TEAM ROUNDABOUT編著

以前から発言は気にしていたものの、ちゃんと形になったものが出ていなかったので待ちに待ったといえば待ちに待った本だ。以前もこのブログに雑誌記事のまとめの感じで書いたことだが、建築雑誌が単なる情報誌ではなく「ジャーナリズム」を掲げるのであれば藤村氏率いるTEAM ROUNDABOUTの論点はいま最も議論が必要なものである。その議論の場所がいまは雑誌上ではなくネットを発信源として東京や広島まで「人とともに」移動していくのは、雑誌が一方向性しかもたないこと、その内容が机上の空論になりかねないことなど地に足がついていない状態がいかに人びとにリアリティをもたらさなくなったということか。

表紙というかカバーを開くとかの伝説の雑誌『都市住宅』の編集長である植田実氏のインタビューが掲載されている。本の中身はほとんどが建築家がメインになっているなかで、それらを統括する役目もある建築雑誌の編集者をトップにもってくるというのは図式的には正しく、さらに編著者らが目指す姿という意味もあるのだろうか。
『都市住宅』を「伝説」の雑誌と前述したのにはいくつかの理由がある。一つはインタビューのなかで植田氏が触れている通りその建築家の選択の仕方にある。後に野武士といわれる伊東豊雄安藤忠雄など空間が都市に対して閉鎖するなど、コンセプトを重視した建築家を『新建築』や『建築文化』などの実務ベースの建築家よりも優先し掲載していた。さらにはその雑誌自体が発信する建築的思考を助けるような方法論、すなわちサーベイやフィールドワークを率先して建築家に建築自体の閉鎖的な思考ではなく都市を基準とした思考を与えたことは北山恒などが他メディアで語っているように有名な話である。そしてここはすこし蛇足になるが、今までにない編集手法もその一つである。この本自体も表紙がメディアの入り口としてではなく半ば独立したメディアとして機能しているが『都市住宅』の表紙は建築家の磯崎新がコンセプトを、デザイナーの杉浦康平がデザインを行うという手の込みようである。
そして問題はこのような先を提示する雑誌がいま存在せず、1960年代後半からの間続いていたか、ということだ。それがTEAM ROUNDABOUTの現在の突出した活動の原点であるとも考えられる。もちろん、社会情勢も大いにある。バブル期建設業界も儲かっていただろう。その恩恵にあやかるのが建築系出版社であるともいえるのであるから、広告収入でもっていたということも充分に考えられる。また、マーケティングの世界においても、1960年代のマス・マーケティングから、ターゲット・マーケティングダイレクト・マーケティングと社会の消費傾向が変遷していることから一つの大きなイデオロギーを発信するということに意義がなくなってきつつある。他者との比較、個性化、そして2000年代の本質への消費傾向は、金融危機から根本的な影響は与えられてないにしろ、本来の目的ではない文化的「趣向」として消費されてきたものに対しては容赦なく切られるような印象もある。
現在の建築雑誌は新建築社、A.D.A Edita Tokyoなどの専門雑誌からマガジンハウスやモダンリビング系の雑誌がある。建築を掲載する雑誌の各論はここではおいておくとしても、ひとつの図式から捉えられるものもある。総合的なジャーナリズムとしての「新聞」を例にとってみると、国会に停留し記者クラブ内で外部に政治情勢を伝える政治面が新建築など王道とされる建築雑誌であるとするならば、住宅やインテリアに関する住宅というよりも婦人誌に近いものは文化や住まいの面であると考えられる(あくまで浅い私見)。ここで抜け落ちるのは国際面や社会面、そして「社説」である。国際面はa+uやGA Documentが挙げられ、社会面は日経アーキテクチュアということになるか。そしてジャーナリズムの本質に近いものであると思われる社説は各編集長や月評の形で表れているともいえる。しかしこれは様々な場所でいわれているように建築評論の不在が現在決定的になっている。ここでいう評論の役割は現代を検証しつつ未来への理想を掲げること(左よりか?しかし右傾化は現代を肯定的にみていては今の建築界の情勢は改善されない)であるとする。この役割を伝説の雑誌『都市住宅』若手建築家を巧みに紹介することで担っていたとも考えられる。そしてその役割が不在のいま、TEAM ROUNDABOUTが現代のメディアを利用し次なるジャーナリズムを確立しようと試みていると考える。
これはいまのITの技術革新があったからこそ可能になったともいえる。建築雑誌は前述のように広告収入で大半をもっているようなものであるから、新聞のように政治に対して批評的に、そして建築を取り巻く社会に対して批評的になるということは不可能に近いからだ。
表紙だけでここまで書いてしまったので内容の各論は以後更新していく。