バイト先の編集者の人(S)と昼休みに昨今の就職状況、企業組織の話になる。
内定をいっぱい取れる人はいっぱい取れて、一個もとれない人はとれないんだよねえ、とSさん。
とりあえず「就活」というものを経験した意見として、あまり使いたくはないが自己分析と企業研究ができているかだ、といっておいた。Sさんの年代とは明らかに違うので、あまり今の現状は当たり前とは言えない。ネットで自由にやるというのは全くない。
Sさんの時代というか今以前の年代の人にとって、ここまでみんなが自由に職を選べるということがない。
自己分析により自分を知り、自分という価値を普遍化、説明化して、それを企業の求めるものと一致させる。それを論理的にできなければ、それは向こうが行いたい面接の最低限にまで至らないことになる。しかしそれだけでいいわけでなく、人柄のよさ、面接官との相性など運と言ってしまえるところもある。
この編集者の方とは世間一般的な話をすることが多いが、今日は中央大学の教授殺害の話から就活の話の流れになったのだが、モンスターペアレントなど、他人に責任を押し付けることから露呈する事件が最近多い。
同年代のいろいろな人と話すことは当たり前だが多い。そのなかで「自分に自信がない」というのをよく聞く。私自身そこまで自分のことに自信があるとは思ってはいないが、自信がないまで考えることもあまりない。
「自信」というのは相対的な自信と絶対的な自信があると思う。相対的な自信の方は単に周りより能力が高いだけでつくものであって、それは本当の自信ではないと思う。本当に必要な自信は絶対的、つまり社会や周りに翻弄されない、関係なく成立する自信。それは自分の過去と現在、未来を知るということではないかと思う。都会で生きる専業主婦も、田舎町のおじさんも、みんな自信をもって生きている。生きるということを楽しんでいる。自分はこういう人間で、こういう性格である。これを言うときにネガティブに思ってしまうことがあるとしても、それは単に視点がネガティブなだけで、重い過去を背負っていたとしてもそれをいい意味で捉えられなければならない。環境が悪いのではない。自分が悪い。
これを知っている以上の自信が必要だろうか。富とか、名声とか、それは相対的であるものでしかない。そうではなく、他人と比較せずとも出てくる人間の価値は絶対にある。それが自信なのではないのだろうか。
それが短絡的に環境のせいにして他人を恨む、ということが結果として表れている社会問題は多々あると思う。
メディアなど、情報の多いいまだからこそそれが見えにくい社会だ。