普段の生活では考えられない時間に起床、朝食の準備をする。昨晩は意識はあったものの自分で酔っていることがはっきりとわかっていたので、今日の体調が心配ではあったがそんな心配はよそに体は動く。以前のときと同様に火を起こす当番を中心にみなで大量の食べ物を生産する。
疲労がたまっている自分と同様の他人と過ごす朝ほど違和感のある空気が流れる時間もない。みな思い思いに重たい腕を動かして食べ物を口に運び、少しずつ脳の歯車を動かす。朝食時など歯車を動かす準備をしているようななんとも言い難いゆるくしまりもない時間と空間。しゃきしゃきと飯を胃に流し込めているのは先生だけだった。

朝食の後片付けをしようとしているとき、昨晩約束した草刈りのために地域の方が迎えにきてくれた。本当にくるのか、酒の場の約束ほど確定性の疑いがかかるものはないが、さすがは田舎。都会のつながりの薄さに慣れた自分が変だと感じた。都市という意識の集合体と、地域という生活集合体の違い、それは形而上的な常識で嘘か本当かわからない不安定な状態で個々の人生が進んでいるのと、信頼を軸にした強さのあるつながりで一歩一歩確実に「生きている」ということ。今を都市でいきる現代人には最も不足して、さらに最も「めんどくさい」と感じられる本来的に関係のなかでしか生きられない人間という定義の喪失。

軽トラで峠頂上の手前で草を刈る。背丈ほどに育った桜の木の周りを鎌で刈る。私たちは手動で比較的平坦な場所での作業だったが、メインは藤野の特色でもあるといえる6、70度ほどありそうな急勾配の斜面。地域の人たちはいとも簡単そうにしっかりと斜面に立ち、草刈機で刈っていく。昨日小池さんから他から来た人にここでいきなり作業するのは無理だという話を聞いたがこのくらいの勾配斜面が普通にあるここでは無理だろうということが実際にわかった。
ひとつ、自分の発見があった。どうも草いじりが好きらしい。というか、植物自体見るのや触るの大好きだということが鮮明に意識化された。桜の木にまとわりつく蔓をとる作業や折れた断面にみえる細胞を観察したり葉脈をみたり。無性に植物図鑑がほしい。ここらへんの植生など大きなことも調べてみたい。
草刈りを手伝わさせていただいたお礼と、地下足袋をいただいたお礼を言って民家に戻り、帰宅。時間が早く、もったいないと感じたが体にだるさも感じ、帰路につく。