夕刻から、工大の後輩であるNに会う。
公務員になって、何をどうしたいのかよくわからないがいろいろ考えているらしい。若い人に求められる何もわからない状況においてやんや言う「健全さ」はもっているらしい。その美学はいまでも根強くあると思う。自分も昔はそうだったのであろうと言えるが、そこにまた戻ろうとは思わない。

「東京は興味をそそるものが多くて飽きないですね」。後輩は新宿の街を歩きながらこういった。しかしそれは、東京に住んでいないから言えるのだ、と私は嗜めた。確かに、東京へ来た当初から、全てのものに反応しなければという強迫観念があったことは否定しない。しかし、無理をしてそれをしていたとしても雑多で膨大な情報の処理を放棄しなければならないキャパシティの拡張にはなりえないことがわかった。キャパシティの拡張ではなくカットアウトするようになるのがオチだ。これは自分に限らずであると思う。それなりの無理強いは必要であるが。

「きづき」と「行動」の連鎖反応が鈍くなる。これは改善すべき感受性の問題ではある。しかし、その必然はつまり処理能力の問題というよりも野暮に全てを受け入れることの不可能性の明確化であると捉えるべきであり、それを念頭に置きつつ思考回路の連続性とその諸々の到達点あるい射程上のものとして認識すべき必要があると思う。

その常に連続性と跳躍を意識することが社会と自己同一性のすりかわせであり限られたフレームを批評し、自己と ともに社会を拡張する方法論になるのではないだろうか。それは両犠牲というよりもラインとコンテンツを自らつくりだす主体性の問題だ。

「大人になる」というのは尊厳をしることができることだと思う。しかし、それだけではいけないこともわかる。客観的には小さくなっているように捉えられていてはいけない。その両者を共存させるための、バランスを磨かなければ。

新宿でNと別れたあと、横浜にもどり、石川町のクラブ、LOGOSへ。
何も考えない、空白の時間。空間に身を任せるだけ。
これでいいのだ。