研究室で論文考。
明日から東京を離れるので、論文の目的を再確認しておき、しっかりとノートに留めておく。と言っても頭が変わるのではないので大丈夫なのだろうが。一度頭をリセットするためにも開放的にできる準備としてしておいた。
そういえば、一年前は論文として、「ジャーナリズム」という言葉を頼りに行動していたように思う。もちろん、今でも自分の起点にはその姿勢があることは体も忘れてはいないが、雑誌という新聞でも書籍でもない不思議な媒体の本質はなんなのか、あるときは書庫で、あるときは編集の現場で、その意味を捉えようと躍起にしていた。これはその本質の向こう側に、本当の良識という「正義」があるのではないかと無意識にあったことが今ではわかる。
しかし、戦前、戦後の雑誌とは違い、今はその「正しさ」というものは常識という「どこかで作られた前提」に成り下がり、個々の世界でしか世界は世界でしかない。そこに、マス・コミュニケーション、マス・プロダクトの存在は危うい立場に立たされる。この状況で、「ジャーナリスト」という職能が社会化されること自体、自分のなかではリアリティをもたなくなった。「社会」という大きなものに対抗するための理論と実践の融和を感じていた専門雑誌にもその力はなくなり、単一のイデオロギーでは維持しようがない。現状では、一次情報でしか何かをマスに発信するのが一番の方法論になっている。
新聞社、一般雑誌出版社と手を伸ばし理解を深める一方で、一次情報を作り上げる現場の魅力には敵わないことが身に染みてわかった。しかし、それを伝えること、小さなことから一歩一歩踏みしめて広め、マスに常に語りかけるというのは意義深く、充分に必要なセンスである。

夕刻、横浜に本屋に少し行った後、スタバでだらり。日が暮れそうな時間の街の空気をひっそりと吸う。心地いい、ゆったりとした時間。
明日からというもの、空いた時間があればと思い、少し本を持っていくとする。といっても宅建が優先されるが。

あー、九月に神戸のクラブでオレペコライブやんかー。行くか。