A.D.A EDITA TOKYO
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建築を伝えるということ。
時間。空間。人間。時代。社会。
建築が持つ多様な側面をメディアを通して伝える。
SANAAコールハースは忠実にミース、コルビュジェを研究していると思う。それを学生は表層的に受け取り、それが「新しいこと」だと思ってる。自分も偉そうなこと言えるほど理解した訳でもないが。
メディアの発達というものは、文化をどんどん表層的なものにしている。確実に。それで「学んだ」と思い込んだ学生が建築を作り、街並、都市を作っていく。
建築という本来体感するものを勘違いして、理論や表層的なプレゼンテーションで理解する。ミニマムなファサードを当たり前のように描いてくる学生は、メディアで体感したと勘違いしてる。今現在で最も若手と言えるだろう藤村龍至の実施プロジェクトの集合住宅と店舗の複合施設では、グリッド化された平面に、コンテクストによりヴォリュームを決定していく手法を提示した。これは新しい手法と言えるだろう。
このようなダイアグラム的な作り方は、レム・コールハースからMVRDVに受け継がれ、今現在イラストレーターなどのCGソフトの定着とともに手法として定着したものである。しかしここに、何か空間的な発展はあるのだろうか。それか、ミースですらもこのような結果論的な新しさだったのだろうか。評論家が深読みしすぎた結果なのだろうか。
そうは思いたくはない。メディアの発達していない近代において、建築家達は自らの体感をよりどころにして次なる建築を思考したはずである。様式主義の建築から脱した近代建築は、インターナショナルスタイルに移行して、現代に至り、フランク・ゲーリーの出現からスター・アーキテクトの出現、メディアの発達が建築をニュートラルにしてしまった。
建築が文化、地域を映し出すものという定義はもうない。それ以前に世界が近くなり過ぎてしまったのかもしれない。


こんなことはもう世界中の建築家は理解しているのだろう。だからその土地に立って見る建築の評価よりも、メディアで伝えられる範囲での評価で物事を決定する。時代にデザインさせられているということだ。


中途半端なメディアのせいとは一概には言えないが、手頃すぎる情報、ハードルの下がった建築教育が明らかに日本の街並を悪くしている。自分ももしかしたら建築をやれるほど努力をしていない人種なのかもしれない。
日本という社会構造の中で、経済のためにしか建築をできないことが生まれている時点で日本は終わっているのかもしれない。大学を出るときにしたいこととできることを決められるのが間違っているのかもしれない。もっと早い段階で切らなければならないのかもしれない。今更どうしろというのだ。


最低限自分はいい建築を作るよりいい伝え方をしたいと思う。いい建築を作ったとしてもそれは伝え方によるといいように伝わらないからだ。メディアはここまで発達した以上、後退は絶対ない。それならば、メディア自体を変えるしかない。だからぼくは、良い建築をよく伝える編集者になりたい。