明日から休講。学校も閉鎖。このことの意味が全く分からない。



「おもしろい」という言葉について。
最近、おもしろいという言葉をよく耳にする。この言葉は昔からあったのだろうか?そこに確信がないため、以下の言説は全く意味のないものになるかもしれないが一応。


【おもしろい】《形》
1、気持ちが晴れるようだ。愉快である。楽しい。
2、心ひかれるさまである。興趣がある。また、趣向がこらされている。
3、一風変わっている。滑稽だ。おかしい。
4、思うとおりで好ましい。

広辞苑 抜粋


「こっちの方がおもしろい」と言われることが多々ある。どういう意味で言われているか全くわからない。だから使いもしていないのだが、調べてみてなるほど、こんなにも意味がある。
OMAの重松象平の講演会で『おもしろい』とはどういう意味で使っているのかという質問に対して、氏は新しいとかいいだとか多様な意味で使っていると答えていた記憶がある。OMA内、設計事務所内、課題講評ではいいのかもしれない。それが一種のプロの中のOKサインである可能性が含まれるからだ。
しかし、学生同士の会話でこの言葉が出る。多様というのは裏を返せば曖昧である。曖昧なまま、何がいいのかわからず思考を進めてしまうほど表層的なことはない。『どう』おもしろいのか。修飾語を付けなければ、何がどういいのかわからなければ理論的に何も構築できない。対象が建築である以上、形だけで納得させられる場合もあるだろう。しかし、そればかりではない。少なくとも自分にとってはそうでなければならない。
この言葉は、おそらく、現代の学生の理論的思考展開力を低下させていると思う。コルビュジェの、ミースの作品に誰か「おもしろい」と評価を下しただろうか?聞いたことがない。そろって「いい」「すばらしい」空間という。評論では使うことは暗黙の了解のようにない。決まって現代的な作品、今を生きる学生の作品に対して使われている。そして個人的には塚本由晴氏が思い浮かぶ。「メイド・イン・トーキョー」「ペット・アーキテクチャー」である。スクラップ・アンド・ビルドの時代、すなわち近代建築というコンテクストの中から「おもしろい」ものを『拾い上げる』というプロジェクトである。この「おもしろさ」というものは既存の中にあるもので、新しく『生み出された』のではなく『見出された』『拾い上げられた』ものである。一般化された都市の中から何か可能性を見出す、ということである。ということは「おもしろい」というのは何か「可能性がある」と訳すことができる。
ここで一層「おもしろい」という言葉の曖昧性が深まった。「可能性がある」と言っているだけでは何も進展はないだろう。自分だけでもこの言葉に惑わされないようにしよう。