兵庫県立美術館にて、アートと建築のシンポジウム。



基調講演として、千葉学の講演。
直接的にアートと建築の関係性を語るというのはやはり難しいことであり、千葉氏、後の阿部氏ともに建築家としての自分でアートを語る。
以前の工大での講演でも聞いた、ランドアート特にウォルター・デ・マリアなどについて。ランドアートは地面に掘る、自然に直線の傷をつけることをアートとして表現されているが、人が手を加えることで改めて周囲の環境を知る、人が手を加えていることによって自然現象が強調されている。ランドアートは建築のあり方との類似性があり、人と自然のあり方、関係性を表現する芸術なのである。
また、森ビルでレイアウトを担当した「日本美術は笑う」という展覧会では、後に述べる集合住宅などで使用される手法、すなわち窓に厚みを持たせて外部との距離を操作することを展示に応用し、アートの新しい見方を提示する。


次に、青森県立美術館のコンペ案。
周囲の環境からの散策路を絡み合わせ、交差する道を「自由に」通り抜けられる計画である。現代建築家の類似性として、表現に「ワンルーム」「環境」「フレキシビリティ」が多用されているが、千葉学もその一人である。しかし、千葉の場合、建築による周囲の環境に対する空間構成力は強い。これは韓国のプロジェクトでも確認できる。その延長として、千葉の建築家としてのアイデンティティが確立される。それは、前述の展覧会でも使用された手法である窓の厚みで環境との距離、新しい環境の切り取り方である。それはワンルーム的に作られた集合住宅であるが、ネガティブに周囲の環境をとらえ、距離を置くために壁に厚みを出し、結果的に表れた窓の厚みの部分に鏡を貼ることで周囲のものに違う見方を与える。ビルとビルの隙間すなわち隣の敷地の端に置かれた樹木や隣地建物の壁に新しい価値をあたえるものとして現代建築家としてアイデンティティを獲得したのではないだろうか。


最後に見せた最後のスライドは、盲導犬の訓練施設。全体的には分棟案なのだが、ヴォリューム同士の距離感を問題にするのではなく、蛇行する回廊に挟まるヴォリュームとしてデザインされている。回廊すなわちヴォリュームをつなぐパスが先行されてデザインされているため、シークエンスによって周囲の環境の見え隠れがデザインされているとも言えるのではないか。表現としても、柱は細く白い線材として、ヴォリュームは黒く重い存在感があり、面が強調され風景の切り取り方が操作されている。


このように細部の意匠により建築のあり方を模索する千葉だが、都市の景観自体にも着目している。最後に提示したスライドはタクシーのスライドだった。このタクシーを変えることが都市景観を変えると睨んだのは、建築家としてさすがだと感じた。このタクシーをすべてプリウスに変え、色彩で会社を表現するのである。現代日本で世界に誇示できる技術力で、環境に取り組め、都市景観を変える可能性を提示した。



続いて、阿部仁史の講演。
建築と美術と地域 -箱とカテドラル-というタイトルを掲げる。アートは美術館という建築から逃げ都市、環境へとシフトする一方で、建築はアートに近づいていると語る氏は、ラスコーの壁画をアートの原初として提示した。この過程が真実だとすれば、アートと環境は一体である。
そしてノートルダム大聖堂にはアートと環境に境界がない。世界と自分が一体であるという確認である。ルネッサンス期のミケランジェロ等の絵画には、自分の周りに神の世界があり、建築の延長としてアートがある。存在、リアル以上に美しくあることがアートである。これは、建築が地域の延長であり、アートは生活の延長であることを示している。次に出現する写真技術は、今までの表現としてのアートに対して大きな脅威を与えた。あるものを忠実に描くことがある意味でアートの本質であったからだ。そして絵画は抽象へと向かうことになる。セザンヌは景色の構造に本質を求め、スーランは光の効果に。モネ、ピカソマティスなど、何に本質を求めるかが絵画の質の違いを出してきた。そして写真の出現によって自分の周囲を切り取り、独立した世界を持つアート、モンドリアンのように一つの宇宙を内包するアートが出現する。それが美術館というビルディングタイプをニュートラルなもの、すなわちホワイトキューブに変えたのである。さらに資本主義社会にアートが組み込まれるようになり、商品として場所から切り離されること、移動可能であることによって場所の求心性が弱化した。
そして現代アートではコッミションワークとして磯崎新と荒川秀作の奈義美術館におけるインスタレーションやロバート・スミッソンによるアートと建築、アートと環境を結びつける行為として現実とリンクしていくが、結局は閉ざされた独特の小宇宙を作ってしまう。
最近の事例で、美術館としての成功がまちに影響を与えたとしてビルバオグッゲンハイム美術館を挙げる。独特の場所性を作り出し世界的なランドマークとして、経済効果を起こし、まちの構造を変えた。


氏の作品として、菅野美術館。キューブにシャボン玉を入れるように、アートに対して空間の大きさを変えるという手法を使ったこの作品は、鉄板で構成されているため、ホワイトキューブのテクスチャーではなく凹凸のある立体感のあるバックグラウンドになっている。


最後に出てきたスライドは、ハチ公の銅像。場所性の喪失、携帯の出現による場所というシンボルの弱体化をを表現する。



以下、何ら脈絡のない座談会。



オブジェクトの強さがないと、環境の中で負けるアートに対して、建築は単なる小屋であっても生活が見えるため強く見える。
抽象表現は生活を排除すること。建築はアートを追いかけている。


日本の教育は多彩なカリキュラムの中に設計がその一つとしてあり、広い知識を教育する一方、アメリカ教育はスタジオ制すなわち設計をメインに教育を行う。構造や設備があるからこそ建築はおもしろくなると千葉氏。


20世紀はコンピューターなどでビジュアルに頼る時代、視覚でいろいろ経験できる。建築はそれに慣れきった身体に身体的経験を呼び覚ますことができる。そこでさらに場所の意味が重要になる。


人が場所に縛られなくなく、目だけを介する時代である。情報技術が個人のためでなくなったとき、場所というのは人と人をつなぐ最大のメディアとして存在する。


最後に、安藤氏は建築が倫理観でできていることを述べ、さらに現代の若者の人間関係の軽薄化を危惧する。