ゆうと家島へ。

早起きして姫路へ。少し時間があったので姫路城近くの建築を少し見て回る。

姫路城。まだ日が昇っていないからか、かなり表面的、チープに見えた。光と陰のコントラストはやはり重要だ。

丹下さんの兵庫県立歴史博物館はファサードしかみてないけど、ディテールが微妙だったかもしれない。でも、姫路城に向けてガラスのキューブを張りだたせ、ガラスのテクスチャーに周辺環境を映す手法は、ガラスを城壁と見立てたコンテクストと調和している。

煉瓦造の美術館は重みがあり、モダニズム建築よりかなりよくみえた。

安藤さんの司馬遼太郎記念館。少し幾何学操作をやり過ぎな感じがして、本来の安藤さんの明確なコンクリートと光のコントラストが薄れてしまっていた。円形平面に見えていた展示空間も半分はキューブが貫入しており、求心性が減少していた。この脱構築的な操作は司馬遼太郎の何かと関係あるのだろうか。


姫路港からボートに乗る。沿岸の工場建築は機能と形態の一対一対応、すなわちサリヴァンの形態は機能に従うという近代建築の定義通り産業遺産、モダニズムと多様な意味で取り残された建築である。

すっごい勢いのボートが家島に近づくと、圧倒された。彫刻のような造形であるがスケールは人間を超えている。

家島は瀬戸内海に位置する。埋め立て地(家島は関西国際空港)のために島の土・岩を削られている産業遺産の一種である。しかし、島自体、地形自体がなくなっていく。証拠自体も消滅していくということである。

島について間近まで近づくとそこではまるでSF映画の中にいるような感覚に陥った。明らかに大きな機械のせいだ。採掘用の機械は島という自然に従属するように動き、その場にいたぼくたちを置き去りにしていた。それは美しい自然を他者としてぼくたちが見る感覚ではなく一方的にぼくたちが排除されている感覚である。都市の雑踏の中にいる感覚と少し似ているのかもしれない。しかしそれは手の届く人というスケールではなく、圧倒的に巨大で異次元のスケールである。

しかし、採掘所となっている場所は美しかった。石を人間が削るように機械が山を削る、巨大な彫刻だった。
自然の壮大さに人が手を加えたランドアート。そのテクスチャーは粗く、全体は力強過ぎる。ヒューマンスケールに属する全てのものは排除され、ぼくたちに立ち去るよう勧告する。

美しいが決して鑑賞する対象にはなり得ない。ぼくらは常に支配されているのだ。

人間が人間のための都市を作ろうとしてできた副産物であるこの島は、単なる自然以上に人間を排除する。人間が自ら作り出した環境に変わりはない。人間は気づかぬうちに地球から自らを排除してきたということを見ることができる自然にできたアートミュージアムである。