メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学 (光文社新書) メディア・バイアス/松永和紀 光文社新書
 メディアの病理というのはなんであろうか。おそらく、一番恐ろしいのは消費者、読者を翻弄する力を持っていると言うことである。それが間違いであったとしても、表象だけを作り出すメディアを見る消費者も表面的なのだ。その裏でどのような苦労や疲労、逆には勘違いや不足があったとしてもメディアに載ったもの、ましてや著名なメディアであればそこには大きな信頼感や説得力がある。そしてその正しさを知ることのできる権利と、その絶対的な正確さの責任は表裏一体である。
 この本では健康に関するあることないことを報じた科学メディアの真実、虚構性が語られている。筆者は理系の大学院を修了しており、科学的な知識をもつ人物だ。新聞、テレビなどの失態をまざまざとみせつけるこの本は、記者を目指す自分にとって一瞬の不安要素となると同時に、当たり前のことを当たり前のこととして受け止めすぎていた自分に気づく。有名人、学歴など一つの事項で人間を決めつけ、会ったこともない人間を信用してしまい、自分の頭で考えていないことがまだまだあることが浮き彫りになった気がした。
 テレビ制作における問題点の指摘も興味深い。一つの側面からしか物事を捉えず報道してしまう。それだけなら無視をすればいいか自然に消費者も逃げていくだろう。ここでひどいのは、一つの結論に導くためにある物事の一側面を数個並べ、効果があるといってしまうことだ。その根拠づけにも科学者の文脈を無視したコメントを使用し、さぞ本当であるかのように報道してしまう。ある一側面をトリミングした部分を並列するコラージュはメディアができる大きな力だ。しかし、そこには視覚的な相乗効果しかない。視覚的な要素、すなわち写真などの視覚芸術を並列することに意味があるのであり、その要素が持ち得るコンテクストをすべて消化しなければならない健康情報にこの手法をしようするのは全くの無意味だ。さらにテレビ制作では結果からのフィードバックで作られるため制作者もおそらくそのことには気づかないのだろう。これも消費主義社会の恩恵であろうか、最終的なアウトプットばかりを見てそれに準ずるものしか見えなくなる。事実は利用するためにしかなく、そこに意味はなくなっている。やりたいことのためにすべてのものが存在しているかのように。ぼくも卒業設計でこのような思考をした経験がある。最終的なアウトプットを先に出し、そのための敷地、プログラムなのである。そこからは何も生まれない。社会的な意義も、何かを解決する力も。美しいプレゼンテーションと中身のあるようなプレゼンテーションだけだ。表層しか存在しない。