西田司+藤村龍至展 URBAN COMMONS @BankART Mini Gallery

同じ1976年生まれの建築家二人による展覧会。
横浜トリエンナーレ会場の隣で行われていた(多くの人がトリエンナーレのチケットで入れると思っていたみたい)ためか、生まれた年だけでなく、両者とも社会、コミュニティの中での建築、建築家の在り方の表明を意識した展覧会であるように感じた。
批判的工学主義を土台とし、BUILDING Kなど設計プロセスを中心に最終的なアウトプットだけでなく、プロセスにおいても社会からの介入可能性を表現した藤村龍至氏と、平面図を突きつけるトップダウン的な建築表現でなく、固定されたパースペクティブをばらまき各々に額をつけることで一つの建築の出現により変化する都市を表現した西田司氏。両者ともに展覧会というメディアを意識した展示をしている。両者の表出するものは一見すると全く異なる世界観であるが、「社会に対して建築がつくる価値」という点においては一致している。建築家の展覧会といわれてすぐさま想起するのは、「完成された」手書きのスケッチ、平面図や断面図などの図面、竣工模型などアーティストが自分の作品を展示するのと同様の展示内容である。しかしここで展示または見せようとしているものはそのプロセスであり建築が出現したあとの風景のみである。いわば建築のための建築ではなく、社会に置かれる存在としてその価値を作ろうとする姿勢をもっている。
一個の巨大なヴォリュームを都市に出現させる以前のプロセスをもつ藤村氏の展示は、練り消しゴムを引き延ばし表面積を大きくする事でそこらへんに落ちている塵や埃などを付着させ、また元の形に戻そうとするかのような行為を想起させる。社会の要請として存在する容積や機能などをそのままヴォリュームに落とし込み、複雑な社会的、物理的な条件を一つ一つ飲み込んでいく。最終的に作り出された建築はまっさらの練り消しゴムではなく周囲の埃(条件や個人の意志)を取り込むと同時に氏の手あかがついた練り消しゴムである。それは結果的に周囲のコミュニティに突如あらわれた謎の物体ではなくそれを取り込み最初からそこにあったような建築となっている。
一方、西田氏の展示は額のついた窓がばらまかれているものである。窓の向うには計画中の建物を通して向こう側の風景まで見える。しかし額と建物を併せたものが氏のいう「ふしぎなめがね」ではなく、地域に別の遺伝子が組み込まれたというべきか、グランドレベルを極度に開放した事により周囲の在り方を変えてしまう街の一部が突然変異する事自体が「ふしぎなめがね」としての建築なのである。ここに住む予定の若いアーティストに影響され地域住民もじわじわと変わり、まちに異変が起こってくる事を期待する、形だけでない新しい建築の価値を備えている。
両者の建築はプロセスと成果物、そして事象としての建築、つまり建築行為全体をデザインしたものである。そうであるからこそ置かれる都市やそこで関わる人々にとって建築そのものまたは建築を通して価値が伝播される重要な社会的なファクターになり得ている。
最後に、一つ印象に残っているのが環境への意識である。BUILDING Kでは長寿命化の配慮がなされているし、西田氏の展示には高効率系のエネルギー設備が使用されているらしく協賛までされていた。建築メディアを賑わす建築家が地球環境への考慮をしているというのは驚きであると同時に作品主義に陥っていない彼らのスタンスに深く共感できる。