ミリオンセラー誕生へ 明治・大正の雑誌メディア @印刷博物館
日本における「雑誌」の歴史を展示する展覧会。
明治初期の日本初の雑誌から、大正から昭和時代のミリオンセラーの雑誌ができるまでを年次順に原本と解説を展示している。

現代でも区別されている新聞と雑誌はこのころから体裁の面で区別されていた。もちろん、初期の頃とは違いムックなど様々な形態の印刷物が刊行されている。
日本最初の雑誌は明治初期、慶応3年発刊の「西洋雑誌」だとされている。西洋の新知識の取り入れや新政府への批判など大衆の啓蒙が大きな目的であった。なぜこの雑誌の編集方針の中で「マガゼイン」という言葉を雑誌と同義に扱っているからだ。
「西洋雑誌」をはじめとして明治の雑誌文化は、教育や経済、文学を広めるための一種のストレートニュースの集合体のようなものであった。
それが明治中期から末期にかけて、雑誌はある変革を遂げる。徐々に資本主義化する社会は、商業誌というジャンルを生み出す。鉄道の整備により全国への普及が可能になったことと相まって、コンテンツのカテゴリーを女性、児童、文芸など大衆全般向けではなくターゲットを絞った雑誌が増加した。また、現代も出版されている「東洋経済」の前身の雑誌や新聞雑誌と呼ばれるスタイルのものも出版されだしている。
さらに、宮武外骨による「滑稽新聞」はジャーナリズムの貫徹によるイデオロギーの強い雑誌であったが、内容の過度なことから、記事検閲で出版禁止処分にされているという今ではジャーナリストの鏡になりえるような伝説の雑誌が存在していた。
戦時中は戦争報道誌というジャンルが確立され、「戦時画法」として戦争の状況を国民に知らせる役割を担っていた。
そして大正から昭和の時代、日本初となるミリオンセラー、「キング」が発刊される。講談社から発刊されたこの雑誌は今の同社の企業理念にもなっている「「おもしろくて、ためになる」を編集方針として万人にうける、家庭に一冊を目指した。同時代の雑誌では普通25〜26万部だったのがキングは50万部という数字を打ち出した。この裏側には出版前の徹底した広告宣伝の努力があったという。いまでこそそこまで広告という影響力には多少の疑問符がつくが、当時の情報量からすればこのような努力が売り上げに直結したのは偶然ではない。
他にも様々な雑誌が展示されているが、全体的にみて女性の表紙が多い。これは現代の雑誌売り上げ(トップ10のうち2位から10位までが女性向け雑誌)をみても同じように、この時代の女性のライフスタイルの一環に雑誌があったということが窺える。