学部時代の友達と久しぶりに電話をする。
その友達は一つ留年して只今ディプロマ真最中。
その友達と話していると昔(といっても一年以内)の自分と今は全く価値観が違っている事に気づいた。
ぼくのディプロマは建築は建築のためにあるとかいう標榜を立て、建築、空間がどこまで社会に対し影響を持てるかを思考したものように感じる。沖ノ鳥島という全世界から隔離されたような場所で地球環境に関する研究所とカンファレンス、そして学習機関を作っている。日本の領有ではあるが日本も含めた他の国々からも空か海からしかアプローチできない、非現実的な導入をさせる。そしてそこには並列的な関係(にしたかった)をもった部屋が点在し、そこには国籍も人種もないフラットな空間が存在する。そこで研究者や来訪者(その中にはもちろん政治家も)が「地球のための」議論をする場所を構築した。
こう書いてみると一見社会的なプロジェクトのようにも感じるが冒頭に「建築は建築のためにある」などという独りよがりな前提がある時点で、空間、そして建築家絶対主義の匂いはプンプンする。しかも、都市から超越し過ぎた場所設定は、ある種のモダニズム的思考まである。
これは何も紙上だけでの話ではなく、おそらく当時は建築に携われていれば給料などいらない、金よりもやりたい事だという思考は強かった。
ここからが今回考えたことの本題だが、「金よりもやりたいこと」というのははっきり言って今も変わっていないと思う。というか普通の事だ。しかし、電話相手の友達に一般企業への就職しか考えていないと言った時点で「そっちにいってしまったか」「正しい選択かもな」という非常にネガティブに感じる発言を食らわされた。つまり、「金/やりたいこと」というのが二項対立として成立するという価値観である。正直、今考えるとこれが成立するという思考は非常に陳腐なものであると思う。もちろんやりたいことをやり続けているのはとても素晴らしい事だしそれをやり通すというのはとても高貴な人生だと思う。しかし、金を求めないと言い切ってしまうのはそれを社会に認めてもらおうとしていないだけなのではないか。どこかに線引きをしていて、それ以上は求めない自己満足に終わるのでないか。建築家という職業は何も社会に認められていないのではない。少なくとも目の前のクライアントに認めてもらわなければ他人の金で仕事をする建築家に絶対に実作などできない。そんなことは、バブル期の建築家の言う事だ。
つまりここでぼくがいいたいのは、ぼくは社会に認められる仕事がしたいということだ。もう少し言うと独りよがりの押しつけではなくもっとスムーズに需要が生まれる土壌の構築からしなければならないと思うが。金のための仕事、ではなく、自分そして社会のための仕事。報酬をもらえるというのはそれは自分の仕事が世に認められた証拠であり、これはアーティストにしても建築家にしても同じ。逆にいうと金を儲けられるというのは社会に認められる仕事をしているということ。ビル・ゲイツ然りスティーブ・ジョブス然り、安藤忠雄然り。
ぼくを含め、建築学生はこの矛盾に対峙せず、資本主義などと一括りにしてしまう傾向がある。もちろん社会に対して批評的な眼を常に持っている建築学生の意見は重要である。しかし批評ではなく批判、つまり何も知らないのに頭から否定してしまうのは言語道断、意味をなさない。ただの愚痴だ。ビジネスの世界はそんなに優しいものではない。簡単に金を稼げると思ったら大間違いである。
それに加え給料がいいところ=自分を捨てたよな言い方ははっきり言って失礼で、そこまでいうのであれば給料なんかもらわずに勝手にやればといいたくなる。で、アトリエという選択肢を選んだ方々にはなにか言われそうだがそれに固執して単にそれだけが美しいというような言い方はやめてほしい。