特定の人の欠点だと思っていた事が、自分への誹謗中傷だったという経験はないだろうか。
もしかするとその人は自分と似過ぎていたかもしれない。それか、他人について気づくところも、他人のはずが他人ではなく自分の一部なのかもしれない。
しかしその救いがたい行為に気づいた頃には体のどこかに誰かが強制的に通気口を開けたような暴力的な空気が流れていた。
そんな経験をぼくは多くしてきた。そのたびに自分自身には真空状態の放電管に電流を流した後の電気の残りかすだけがあるような気持になる。
ある人に、「人を消費する人間」という言葉を使った事がある。何の感情もなく人に接し、使い捨てのような「瞬間」でしかない人との時間。自分はそんな人間ではない、と思っていた。それを言った時は。


年末にメディアが作り上げる祭的な虚構への反発か、ひどく内省的な思考が続いている。

12月にしては少し暖かい日の午前中にぼくは家を出た。この数日間恒例になっている昔の友人たちに再会するためだ。
先日友人と会ったときに、ぼくがすぐにホームシックになって帰ってくると思っていた、と言われた。ぼくはホームシックになどなっていない、と応えた。建築関係の編集者とばかり知り合いになり、同世代とはあまり関係をもっていない空虚のような東京生活をそれなりに楽しんでいるし、何もないまま帰るということはできない。
しかし、今こうやって昔の知人や親密な間柄になった人たちとまた時間を共有することはその関係が濃密であればあるほどその過去を何の感情もない一つの物質として処理してしまっているようにも思える。そして形骸化した過去であればあるほど愛しく、縋りたくなる。それがぼくの弱さであり、その弱さで幾人の人を傷つけてきた。

出会った意味の確認か、共有した時間を取り戻すためなのか、人は再会する。
その時間が過ぎ去った今、再度同じ時間を共有することによって過去を見つめ、現在を認識し、未来を信じる糧にする。それは清算の意味もあった。長く、または、親密な時間を過ごしたからこそ多くのものをもらい、多くの傷を与えられてきた。そして多くのものを与え、多くの傷を負わしてきた。それを確認しなければ、ぼくとその人の間に流れる時間は進まない。

そう思えるようになったのも最近かもしれない。多くの傷があることをぼくは確認するために、その痛みを知るためにぼくは人と会っているのかもしれない。