地図を見るのは好きですか?

ぼくは結構好きです。
ご存知の通り、地図とは基本的なもので言えば地形や都市インフラが平面的に描かれていて、それに対応した言葉が単語として置いてある。他にも、地形の緩急がよく分かるようにされている白地図や実際の場所とは位置関係がことなる電車の路線図も地図という範疇にはいるかと思います。
ぼくは今横浜に住んでいますが、バイトやおもしろそうなこととなるとやはり週4回くらいは東京方面に行くことになります。たぶん就職したら東京に引っ越すだろうし、知っておきたい。せっかく関東に来たのだから、社会学建築学で読まれている都市を実際にいろいろと見ておきたい。そんなこんなで東京に行きはじめた4月頃、東京メトロの駅で路線図を手に入れました。それは電車のドアの上に貼ってあるものをA4にしたような紙で、なかなかいい紙を使っています。これと山手線くらい回れればいいなあと思っていました。
しかし、最近あることに気づきました。駅とその周辺は分かっていても、それらがどういう位置関係で大きな意味での東京という平面を作っていることが分からないのです。バイトや展覧会、講演会などのついでにちょくちょく街並を拝見して回っていたのですが、電車を降りては駅周辺、電車を降りては美術館への道のりと、ある点へ行ってはその周辺のみを見ることをくりかえしていたわけです。特に地下鉄の場合、方角が全く分かりません。路線図があるとはいえそれは地形との関係ではなく駅同士の相対的な関係を表示しているのに過ぎません。分かっていれば歩いていける距離なのに駅探で調べる癖がついてしまい、地下鉄で徒歩10分の距離を移動してしまったりと、後から周辺地図を見て気づくことが多くなっていました。
そこでぼくのとった行動は、駅と地形の関係がきちんと示されている地図を買うこと。東京メトロのホームに貼られていた大きなカレンダーになっている地図を思い出したのです。駅員さんに聞いてみると定期券売り場で売っているとのことなので年明け東京に帰ってきた日に大手町で買いました。この地図、350円にしては本当に優れもので、皇居を挟んで国会議事堂の反対側に神保町があることがわかったり、半蔵門線はえらい迂回していることや渋谷と新宿は実は結構距離があるということがわかったりします。昔から東京に慣れている人からすると本当のバカみたいに思われそうですが、世界一地下鉄の発達した東京では駅間距離なんて概念は一瞬で時間に換算されてしまいます。これでは横浜からどこかへワープしているようなもので、全ての都市が宙に浮いた都市なのです。

そしてこの地図を部屋の壁に貼り眺めていると、おもしろいもので駅名を見た瞬間にそこで降りてどこかへ行った記憶が引き戻され、この地図を中心に全ての記憶が最適化されるように再構築されるのです。駅名を見ることでその周辺の記憶が戻され、さらにそれらの相対的な関係もはっきりする。一つの単語を起点として、文脈なしに言葉が連鎖し、全体の見取り図ができることによって一つの駅名から発想されるイメージも豊かになります。

単語が指し示すイメージを知っていると、単語はイメージとみなされ、どちらかというと意味は抽象的になります。
今日バイト先の建築雑誌を眺めていると、宮晶子さんという建築家の図面を見つけたのですが、その平面図には多くの単語が書かれていました。「庭への階段」という説明しすぎなくらいの単語から「バッタ」や「中秋の月」など周辺環境のことが絵ではなく言葉で書いているのです。建築家というと絵や図面と理論は別々に提出する、というイメージがありますがこの人の平面図はパッと見の図面と文字の密度お比率が通常のものとは全く違う、文字情報の多い図面なのです。平面図の役割というのは通常構造や設備の整合性を見たり全体のバランスをみたりする、建築家の考え方、世界観が出る図面です。それは表現的には二次元でしかありません。しかし、宮氏の平面図は前述のような単語が並べられており、壁や空間の配置と共に周辺環境のイメージがすぐに立ち上がってくるのです。これはいくら図面の隣に理論をつらつら書いても想起されにくいことだと思います。一瞬でわかるような記号としての単語をその位置関係を明らかにしながらプロットすることで見ている人のイマジネーションを高める一種の表現技法として成立すると思います。

「単語」という形式の言葉だからこそ瞬時にイメージにつながる、言葉の一つの力です。文章は言葉に文脈を与え、一義的な、単一の意味を負わせることになります。しかし、単語の場合、その単語の発想は自由で、多義的な意味を負っています。さらに誰でも知っているような言葉であればあるほど、その強さは大きくなるものだと思います。