企画者に頼まれたのだろうか、どっしりとした印象の中年の男は観客の前に座るや否や80年代のPOP EYEなどの雑誌を広げ始めた。見開きでの情報密度の高さ、所狭しと並ぶ細かい写真の数々。さらにそれらには値段までついている。
講演者、神足裕司はおもしろいおもしろいと言いながら雑誌を捲っていく。
確かに、今から見るとそれは切り口を持ったカタログである。しかも、氏が出したのはテントなどアウトドア用品の特集。さらに山登りファッションなど最近流行ったような特集である。
1980年代周辺はおそろしく雑誌の売れた時代だったろう。建築専門誌もこの時代には今と違って様々な媒体があった。人々が金を持て余したこの時代はいわば「買い付けの時代」。雑誌は買い物のためのものだった。

小学生の頃から小説など文章を書くことに目覚めていた氏は、非常に恵まれている時代にライターとしての修行をした。若い人を多数起用しメディアにする風潮のあった時代。今ではあまり考えられない。
しかし今とは違う事情であっても、「取材」「おもしろいこと」の本質は変わらない。今日の講演の主題は、これに「自分の地図を作る」というテーマを加えた3つだ。

神足氏は学生の頃、スポーツ新聞で取材し、文章を書いていた。スポーツ新聞とは当然、小説ではない。魅力的な言葉で、幻想的な世界を想像させるものではない。氏の上司いわく、便所で5秒見ておもしろくなければそのまま新聞を置いていき、読んでくれないという具合だ。つまり、どれだけ高貴でも意味がなく、おもしろくてはじめてそこで書く意味があるということだ。
しかしおもしろいものは、なぜおもしろいかわからない。なぜおもしろいか説明できるのならそれはもうおもしろくない。
なぜおもしろいかわからないうち没頭しているときが一番おもしろいのだが、どうやっておもしろくするか考えるのは20代だしかできないことだ。しかし、なぜおもしろいかからはいってはいけない。タイミングとものなど、何かと何かの化学反応でそれは生まれる。
おもしろい記事は、頭からこねくりだすものではない。取材をすれば自ずと書くことはできる。もの、人それらには意味がある。なぜここにあるのか、なぜこんなことをしたのか、なぜか考えること、経験を重ねることによってみえてくる。
ネットには地図がない。単語で検索し、一瞬で目的に辿り着いてしまう。そこにたどりつくまでの過程がないため、全体の見取り図をつくることができない。そうなると、自分がどこにいるかわからなくなる。その過程がわからなければ後から思い出せなくなる。

過去の自分に常にリンクしていることで、目の前の世界が変わってくるということを言いたかったのだろうか。それとも、マスコミ志望の学生を前にして、マスコミ、つまり誰か売れる人を連れてきて金にするということへの経験的忠告だったのか。