近代美術論
この講義の目的は近代美術を現代から逆照射することにより近代美術を批評的に捉えること。
近代美術、いわゆるモダニズムは場所が変化しても価値は普遍であり、それによって投機、流通が可能になった。今日の主題である作家、菅木志雄の作品は「個体」としての塊の彫刻ではなく、「モノ」を設置して「場、空間との関係」を重要視する。菅の特徴をよく表す作品として、「周体」(1999)がある。「モノ」が別の場所や空間に移設された場合、その作品は必ずしも等価ではなくなる。
講義では、1968年の「積層空間」から時系列状に作品を読み進めることで近代美術との大きな違う菅の試みを追った。
菅は完結した価値をもつ近代美術に対してあいまいな領域設定を行う所作そのものを作品化した。展示される空間に暴力的に作品を組み込まず、解放した状況をつくりだす。「状況律」(1971)では湖の上にプラスチック板を浮かべ、石を乗せる。このとき、プラスチック板のに乗せられた石は水上/水面下のどちらに位置するか曖昧でありどこまでが作家の息がかかったいわゆる作品かも曖昧にさせられる。湖すらも作品の一部と化してしまうのである。「無限状況」(1970)、「臨界状況」(1972)においても、動作的な所作、つまり時間を含むこと自体が一般的な「作品」と化している。他からの影響を受け入れやすい素材などを使用して外部性を獲得する作風は、モノ派の特徴でもある。
「無限状況」の美術館における試みと似たものとして「捨置空間」(1972)がある。この作品はホワイトキューブの床にワイヤロープを張り、木や石が置かれる。自由に動き回れる機能自体が無化されて、結果、空間が異化される。前回の李禹莞の作品ではモノとモノの関係性が重要であったことに対して、菅の作品ではモノ自体ではなく状況が重要な位置となる。
加工され、作品化したモダニズムにはない作品の例として、「散境端因」(1998)がある。この作品には切り倒されたばかりの木の一部のような木が使用されている。木という素材として採用したものの持っている秩序を破壊して作品の一素材としない。素材を見極めてそれが素材が持つ秩序と作品の秩序を調和させる。それは人工的であるが自然的な美をもつ、東洋的美学と西洋的美学どちらにもくみしない一貫した態度である。作品であるかないかは微妙であるが、ある時点で作品として成立して、解体されれば単なる「木」とは言い切れない何かを含んでいるとも言える。
「環空立」(1999)は一つの完結した環境を作り出す美術館という枠組みに乗じて枠組みをつくることで、美術館という機能を無化する。この所作は菅の一貫した姿勢である本来の意味体系に視覚を取り入れるのでなくその埒外に作品を置くことで「見る」ではなく「眺める」しかない、作品が放置された状態をつくる空間化でもある。
近代美術では主体が正面性という意味で凝集点がある一方で菅の作品にはこれがなく、もはや近代以前の彫刻の概念は適応不可能である。