近代美術論
「美術館」と「博覧会」
「展覧会」とは、テンポラリーな営みであり、陳列という形式をとるということ、不特定多数の人がみるものである。今回の講義では、その展覧会が日本においてどう成立したのか、それが「美術」にどう影響したのかに迫る。
「展覧会」という形式が完成されたのは明治に西洋から輸入されたときであるが、江戸時代に寺社で行われていたご開帳も一種の展覧会であるといえる。ご開帳には興福寺の阿修羅像が上野の東京国立博物館で展示されているような出開帳と寺社内の仏像などを見せる居開帳があったが、形式的にはこの形がいまでも存続しているともいえる。
展覧会の前身でもある「博覧会」は明治初期に西洋から輸入された。世界的にみると1751年に開催された博覧会が初であり、そこからヨーロッパ各国で行われるようになった。また、様々な国が参加する国際博覧会万国博覧会)は1851年に第一回が開催され、1867年のパリ万博で日本は初めて参加した。
日本で初めて開催された博覧会は内国勧業博覧会である。1877年(明治10年)に第一回目が開催された。博覧会の目的は国をあげての殖産興業政策の中心として、ジャポニズムに対応する輸出品を奨励した。このときの美術品の定義は非常に曖昧で、農作物や鉱産物、機械製品まで出品されていた。柳父章氏の著した「翻訳語成立事情」(1982)においても、輸入言語である「美術」は絵画だけでなく「工匠」として受け入れられ、音楽や詩なども範囲に入っていたという。いまでもそこまではっきりとした区分はないが、「美術」=「芸術」だったのであろうか。
しかし、その曖昧な概念から政府主導で制度化が行われる。大きな柱が内国博覧会を中心とした殖産興業としての奨励振興である。展覧会会場という空間の出現によって美術自体にも変化を及ぼす。江戸期以前には存在しなかった新しい空間は、住生活空間という他律的な存在から、それ自体を目的とした「絵画の自律」を促す。展示空間を想定した創作美術が生まれ、個対不特定多数という構図が生まれたのもこのときである。絵画は画面が巨大化し、色彩が濃厚になる。そのことで観衆の絵画観をも近代化したのである。
その他には古器物の保護や美術教育制度の確立が美術行政として概念の導入をきっかけに行われていった。
これら行政主体の活動から、現在の美術団体の原型も出来上がる。
明治12年に設立した日本画旧派の龍池会は、殖産興業政策に関わっていた内務省・大蔵省・農商務省系の官僚を中心に活動していた。官僚であった佐野常民や山高信離らを中心に、古器物の保護や内国勧業博覧会への協力を行っていた。後の日本美術協会である。
東京美術学校に発展した鑑画会は日本画新派の代表的団体である。文部省官僚でお雇い外国人として来日していたアーネスト・フェノロサ岡倉天心を中心に、月例会などの活動を行っていた。フェノロサは「妙想」、天心は「新按」と称して画家の創意を重視して、画家の個性をとりこみながら歴史のなかから新たな主題を探る講義を行った。月例会で中心になっていた狩野芳崖や橋本雅邦も狩野派の手本を写して画風を寸分違わず伝える粉本主義を批判した。

美術概念の輸入とともに、幕末期に記者として来日し、当時の日本のさまざまな様子・事件・風俗を描き残したチャールズ・ワーグマンの活躍がある。「ポンチ絵」のもととなった日本最初の漫画雑誌『ジャパン・パンチ』を創刊した。また、洋書を調べる蕃書調所にいた高橋由一をはじめとする様々な日本人画家に洋画の技法を教えた。つまり、現在のアニメ、絵画の源流がこの時期に形成されていたといえる。