ユリイカ2009年6月号 特集=レム・コールハース 行動のアーキテクト  ユリイカ2009年6月号 特集=レム・コールハース 青土社
レム・コールハース。ジャーナリスト、脚本家という異色の経歴をもち、その職能でもある行動力と洞察眼、パフォーマンスを駆使して文化的、非生産的アウトプットとして捉えられていた(捉えていた)「建築」という分野に、力という生産性を得るための水を流した人物。それは逆に言うと職能の拡大でもある。しかしそれだけで建築界というサロンで認められたわけではない。最終的にはアイコンという形で政治的に回収されるにしろ、セシル・バルモンドなどと恊働することによるプライベート、パブリックを問わない既存建築理論への批評性。周辺のコントロール獲得による形骸化に陥ることなく現代という非美学的世界への介入を我々に見せしめた。
かく言う私も、どれだけコールハースに魅了されただろう。同年代の同じような学生と同様にコールハースの名のつく書物を買いあさり、そのビジュアル的なパフォーマンス、活動家としての側面、そして次々と生み出される奇抜で刺激的な作品に浸った。ジェネリックシティやビッグネス、ヴォイド、さらには新しい解釈を生み出すコールハースが驚くべき早さと物量で生産するそれぞれの批評は、グローバリズムというその名の通り全世界的な土壌を構築するプラットフォームであるかのようにも思える。
今回のユリイカの特集はTVCC炎上というコールハースが乗り越えてきたある種表面的で中国的な金融資本主義社会の崩壊を象徴するのを期に出版されたともいえる。
この特集はコールハースの近くで最前線を走ってきたが正反対の立ち位置を示す磯崎新氏と対等に話す機会を比較的多く持ってきた評論家の浅田彰氏の対談から始まる。コンペの政治性やコールハースとその建築が表象する社会思想が主なテーマになる。それに引き続き難波和彦氏+岩元正明氏がトポロジカルにコールハースと建築を論じることから各論が展開される。大特集である「シニシズムスノビズムの間で」ではコールハースの社会情勢をサーフするという方法論を集めた「その戦略と実践」、それに対して職能としてのコールハースが「空間派」の建築家には直接は接続しないとした南泰裕氏を筆頭に真っ向の建築論が展開される。これは編集的な意図が大きいが、この大特集のなかで人間的な職能論と伝統的な建築論が同じ数だけ挿入されるというのはコールハースという存在がいかに広範囲に影響を及ぼしたか、その視野の広さ、そして深さを物語っている。しかし、南氏がいうように、センシティブでない、つまり建築界における金融資本主義社会の申し子であるかのように君臨するコールハースはその終焉とともにその職能的な可能性は衰退していくような錯覚があるようにも捉えられる。しかしそれを補完する形で建築論へと展開するように「形式的」な視点から「構図的」に逸脱するような建築手法が浮かび上がり、豊かな空間性を言語化している。
多角的に解釈が可能な建築家を超えた建築家であるコールハースを理解するには、瀧口範子氏と五十嵐太郎氏の対談、「コールハースを楕円的に読む」がいいかもしれない。ここでは元々は建築専門ではないジャーナリストである瀧口氏と五十嵐氏が背伸びをしない等身大の議論を繰り広げる。といってもそこに何か「分かりやすさ」のための妥協はなく、よりコールハースに対してリアリティのある感覚が得られるだろう。
60歳を超えたこれからのコールハースはどうなるであろうか。コールハースが我々に提示した社会に対する視野拡張の必要性は様々な人々が受け取り、実践していくだろう。そして建築そのものとして私たちに提示された疑問符についてもこれから私たちは解答していかなければならない。それがコールハースであり、人間としての行動力、建築家としての職能を超えた人物が世界を覆うグローバリズムのなかで探し当てたある種の「常識」であるのだから。常識的な価値を分かってしまった私たちにもう逃げるところはない。一昔前までいわれていた時代を読み、建築を創造するだけではなく、その創造性を原動力にしたエネルギーを、社会は求めている。本当のコールハースの影響を窺えるのはこれからだ。