文章の上手いか下手かのわからなさを指摘される。
難しい言葉を使っていればそれでいいかのような、言葉の多様な意味に頼った文章だということだろう。間違ってはいない。何かを決定づけることをはやる性格であるくせに大小関わらず決定を先延ばしにするクセがこんなところにもでている。言葉、理論の意義は実践を飛躍するためにあると思っている自分にとって文脈を決定付けることは言葉に制約と単一の意味を与える事と同義であり、文章は常に広がりを持っていないといけないと感じているからだろう。


なぜ、言葉通りに物事を捉えられないのか。普段過ごしている大学院では当たり前のことだったことに、疑問を呈された。いい意味でも悪い意味でも。
自分の明らかな職業病というか、クセである。これを物事を斜めから読むということになるのかはわからないが、時と場合によっては自分を自分で困惑させるファクターになる。
わかりやすいことがいいという風潮は昨今では中心になっているが、それは単に複雑性を隠蔽しているだけにすぎない。しかしこの風潮が大きく流れているという事は、それを求める人が多数おり、支持されているという逆説的見方も可能である。何をもって幸福というのかは人それぞれであるが、難しいことは考えない、考えても仕方ない、最も効率的に表層的に目の前の事象をやり過ごす「消費的」生き方が根幹になっているようにも思える。
しかし私はそこに本当の心の豊かさを感じる事ができないのだと思う。すべての物や事、そして人には存在する理由がある。それは言葉には音声的な意味と象徴的意味が存在する上に、物や事になるとそれ自体が象徴することとそれが孵化する、存在することが許された理由としての意味があるにも関わらず、単なる事実として「把握」するだけで、その対処法を根本的にではなく表面的に模索するということに消費であり単調であるということしか見いだせない。
しかし、だからといってそれだけで生きていると脳の破綻しか目に見えない。それも一つの見方として、ダイバーシティとして受け入れる必要があるように思う。