やっとこさ免許取得。
テストなどは特にストレスにはならなかったが、受験者数が多いためか待ち時間が異様に長い。
朝から出動して昼過ぎに教習所を後にした後、久しぶりに英会話のオフィスに。いつもの受付の人の元気な声が聞けると思ったが入った瞬間若干重い空気。夏休みで人がいないのか、受付のところには外国人教師が座っているだけ。一瞬つぶれたのかと思った。が、そうではなくて時間帯ではこういう時間があるだけのこと。しかし、客に対してはそんなことは関係ないと思う。せっかくいい教育なのに、こういう基本的な部分でポイントをさげるのはもったいない。
その後、研究室に帰って布野さんの『戦後建築論ノート』に没頭する。ふと気がつくとまた同じ次元のところで止まっている自分に気づき、負のスパイラル状態になりかけたので帰宅。
少し遅くなってしまったので少し申し訳なくなりながらもAに電話。パンダは指が6本あるという24歳にして革命的かつ驚愕の事実を知ってしまう。
自分の頭が少し疲れているからか、全体を通すと一部流動的時間を共有できていないとお互いに思った瞬間もあったのではないだろうか。しかし、そこで何かが崩れるという不安定な状態があるわけではない。その確信は大地はただ存在しているのだというだけのように、音もなく意識の深層に山脈を連ねている。時には砂埃が舞い、見えなくなったとしても、それは確実に存在している。究極的にシンプルな「事実」なのだから、それを破壊するための唯一の手段は内部からの再構築でしかなく、表面的な言葉やしたたかなストラテジーほどの微分的行為ではむしろ各部位での新陳代謝によってより強固な塊になる一方である。
いくら最初から意識のなかの超自然的な重力であるかのような、意識下であり、かつ尊い重さをもつ先天的な存在であったとしても、自然に全てが淘汰された状態で、何もしなくてもいいということはありえない。歩んできた道のりも、時間も、質も違うのだから、それを補い合うためにはこのような時間も必然性があった。それは単なる偶然の集積を同じベクトルに向かう絶対的な必然に収束させ、変更可能な未来である運命を歩んできた過去という宿命に変える行為なだけなのだから。