騙される、心を弄ばれるという結果がでるということは自分だけの心境において今は仮説としても成立しない。
しかし感情、認識を表象する言葉にどこか破綻があり、それに自分の認識が流されて信頼という錯覚が生じていたとすれば、それは根本的なな何かを崩壊させる可能性もつ。つまり弄ばれるという問題系自体、個人的な領域しか持ち得ない。
時間を超越するものはなにか。新しい価値観へと変換するものはなにか。
既存の尊厳を駆逐するのではない。自然と認める状況をつくらなければならない。何かを否定するということはそこに含まれる、または選択されている状況から位相を転換したうえで行わなければ非常に危険な行為となる。
否定というある一定の確証があったとしても、そこで全てにおける確定が行われるわけではない。全ての事象には文脈が存在するが、その文脈すらも相対化されないということは絶対的な時間が存在する限り置き換え可能である。ゆえに人には終わりなど存在しない。