研修。そろそろ本腰入れ時か。人事のSさんにまじめにやれと喝を入れられる。どうもあの人だけには頭が上がらない。
修士論文というパースペクティブを獲得しつつパラダイムを作り上げていくという過程と、同時並行で目の前のことに力が入りきっていないことを実感。終わりを決めればいまも決まって行くとは言いつつも、そこにダイレクトにリアリティを感じれなければ実践も単なるレールでしかなくなる。同一平面上の遠い/近いという大きな隔たりがあるからこそ力の入れ方の違いに戸惑いを感じていた。実践を飛躍させるための理論と、理論を導くための実践は、相乗効果を生む可能性とともに、単一の思考形態とアクティビティとしてのベクトルの違いは時間、空間、そして認識として流動的かつ分断的に推進力を得ていかなければならない。
そしてそこには、立ち止まるということも必要になってくる。立ち止まるということを推進力のなかに内在させなければ、大きな推進力たり得ないこともある。

横浜駅で適当に昼食をとって、研究室へ。じりじりとした暑さのなか、明らかに自分はかわいそうなサラリーマンとして映っているのだろうなと思えるほどの汗をかきながら自転車を走らせる。頭がぼーっとした状態だったぼくにとって、一日のところどころに入ってきてくれる桃源郷への入り口があることだけが唯一の救いだ。そこは不可侵の努力をすることをしなければならないし、することを許してくれる。

どこからこの確信と落ち着きがくるのか。
自分のものではなく、与えてくれているようにも感じる。落ち着きを与えてくれているとする波長の同一性自体が奇跡でもあるが、どこかで終わりが来るとしても、最後まで信じ抜かなければ自分が納得できないし、ここ以外のどこかがあるとも思えない。しかし、それは自己完結しているようで全く違う。決して自分の力ではなく、何か決定した事象が未来に存在し、今を規定する力となり、それを錯覚として躯全体で感じているのかもしれない。