いまさら気づくのもなんだが,某著名建築家の卒論と自分のタイトルがかぶってる.
内容はど真ん中と言えるほどその建築家を扱っているのだが,気づかないフリをするか,オマージュの意味も込めておくか,それとも変更するか.まだ変更はきくのでそうしますか.


一方,先生が優し過ぎる気がしてきた.修論についてもほぼ反応が良好すぎるような気もするのだが,そんなもんだろうか.それなりに固まった意志を見せているし,それはそれでいいのかもしれないが.それともまだここは論文の域に達したところではないのかもしれない.やはり最終的には文章に,その総体に出るはずだから.気を抜かず,いいものを書こう.何より楽しい.苦しいが楽しい.ということにしておこう.


今日は隣の講座の人との雑談が若干多すぎた感が.まぁたまにはよい.
にしても隣の講座でしかも「Architectural Theory」という大きな枠組にいっしょになっているというのに,思考回路が全く逆な気もする.歴史と計画,それはベクトルが正反対の学問なのかもしれない.うちの計画系がワークショップばかりとも言わないがメインでやっているところというのもあるが,いま,時代に必要な最先端であるとも言える一方で,ぼくが目標にしている,「歴史観の形成」や「建築的論述の確立」とは一線を画す.雰囲気としても,団体で固まって何かをやることの多い計画系と,超がつくほど個人主義の歴史系.
団体という社会としての活動と,社会というものが周囲でしかない個人主義の講座が1つになる,というのはいくら横断的な思考が必要な現代でも融和はありえないのかもしれない.もちろん,それでいいのだが.