もう、自分を信じるしかない。他律的制約による決定と、それを生み出す自律的思考。それが正しいか否かは、もう自分の判断しかないのかもしれない、いやそうなのだ。自分が信じている人が正しいということが、必ずしも自分に対しても正しいとはなりえない。

しかし、僕が私への第一歩として選んだ企業、そして人がそれをどう思うか、評価しているかに疑問をもつ、ということは前提に対して意義をどう意味をもつだろうか。それは自分と企業そしてそこを代表した目をもつ人との谷底に存在する問題でしかない。僕がもし、一方的で生半可な感情で、さらにその次への段階へと登るためであるとしていたのならば、それは全くの自業自得である。しかし、それが自分本意でありさらに社会にとってもよいと判断されたという認識によって成り立っているのならば、社会の誤認として僕は改めて認識すべきなのではないだろうか。
そこには社会もなく、ただ僕というアイデンティティの揺れが存在するだけなのだから。

自分を信じるしかない。僕は僕という絶対的な存在である他に、私という存在なのも確かなのだ。つまり、誰にも制約されない自分が決めることであって、私を形成するのは僕なのだ。私を作る社会に順応することでそれは結果、僕に影響する。それを現代的な言葉で成長を意味するのかもしれない。それを、一時期は愚直に、無批判に従うということも必要なことである。そうしてみて、社会に「事実を残して」からでこそ、「僕」へとの内省を行うことが初めて絶対的に許される。