日記を書いていない,ということは自覚していたのだけれど,研究室に10時間以上籠っているだけの生活で,修士論文以外のための発見があるわけがない.外部的なことというと新聞は読んでいる.しかし,レビュー的に書く,ということがどこまで意味があるのか,ぼくは一旦修士論文という自分の思考の末端を自分で確認しないといけない怖さがある.歴史的行為としての蓄積と,ぼくという自我の表出は狭く,低い次元なのだろうか.
というのはおそらく,単細胞的な行動,思考として良くないこととみなされてしまうのだろうけども.
明日はまちに出てみようと思う.都市に,