街に,東京にでた.
別に久しぶりにでたということではないが,街を目的的に歩いたのは久しぶりだった.そこまでの収穫があったというわけではないが,何か今までと違う圧倒的情報量を感じた.
銀座経由で広尾にいって駅周辺をぶらついていただけなのだが.1つ1つの何げない建物がいつも以上に気になった.一応目的地はあったので多くを考えずにただ歩いたが,感化というか引っかかりがここまで多かったのはなぜだろうか.商業建築や大使館など,建築的に目立つものもそうだが,最近は論文のことばかり考えているからだろう,変に視覚的な情報受容が強かった.
ポストモダンであるとか,バブル以後の建築であるとか,現代的職能以上に建築は建築たらしめていない.「建築とは何か」という根源的なプロブレマティークは,常に問いかける意味こそ自己の中にはあれ,そこにつきまとうのは膨大な文脈の完成しない単情報と失ってしまった時間だけだ.建築の解体が宣言され,滅亡が実体化したという歴史観は可能であれ,ぼくらにとっては建築という虚構すらも存在し得ない.批評と理論がリアリティをもって語られることはそれは常に自己とのすりよせの一手段としてしか成立し得ていない.
結局,現状においては,不足という事柄は他人との比較のうちの自己の欠損でしかない.