・現在性への統合

東の空から山吹色の月が頭を出して、真ん丸になるまで浮上する一部始終をみた。それはほんの5分、とかそのくらいの時間。
2010年最初の日、最初の月、最初の夜の始まりは、何というか、不気味だった。都市の時間と自然の時間の差異を感じたというか、月が動いている、ということを実感したことよりも、地球が回っている時間が妙に生活とかけ離れているような気分だった。
土地と情報の時間の差異、ともいえるだろうか。60年代から70年代に位置づけられる<メタボリズム>といやにリンクする。60年以前と70年以後は決定的に時間感覚が違う。60年以前の建築はまさしく、「解体」され、「滅亡」した。含有する時間の変化とともに。
その差異を埋めるために、土地と情報の間に建築は位置するのだとすれば、建築は解体されるしかなかった。匿名的に、流通的に。しかしトップダウン的で有名的で、動いている方の時間を吸収し、浸透することは技術的にもできていなかった。だからメタボリズムは、いや厳密に言うと<カプセル>は、モダニズムとして、同じように有名的に経済的に、そして社会的に回収されてしまったわけだ。
でも60年以前捉えられていた時間はいまだに存在するものであって、都市の時間だけが支配しているわけではない。twitterなどの情報的に双方向性を獲得したとしても、ユーザーの時間を技術的に取り込むことが可能になったとしても、近代にあった時間、つまり建築の自律性は必要なことではないだろうか。それは、「現在」も含めた、「現在性」への時間統合である。先行する時間をも取り入れ、社会の時間、人間本来の時間、都市の時間などそれぞれ必要な<時間>へと収束させることが「建築をすること」、ともいえるのではないだろうか。