・建築以内、家具以上の棚を作り出してから考えたこと


GWも終盤にさしかかった今日、本棚を作り始めた。当初の構想段階では、GW中に設計、材料購入、施工を終了させるつもりでいたが、積算した段階でコストが予想よりも大幅に高くなったこともあって、フェイズを分けることにした。設計はGW中に終了させ、資金ができたところで材料購入、施工とちびちびと作っていくことに。
実際はちびちび、ということではないが、本棚という本来であればパッと作る,または購入して以後の生活に支障のないようにするべきものを、終了せずにじわじわと終わらせない。その間、本たちは平積みのままで必要になったら文字通り本の海から拾いだすという始末。オープンエンドといえば聞こえはいいが、生活環境の構築に数ヶ月かけ、その間暫定的な物の配置を部屋の中でする、というのは一般的にはあまりないのではないだろうか。完結的でかつ思考停止のデザインに囲まれた現代であればなおさら。
「BRUTAS」の今月号、『居住空間学2010』に、John Carsonという建設業をしている人の巨石の家が掲載されていた。氏は仕事をしながら、週末に人も住んでいない原生林に出向き、自らの住宅を5年かけて建てたという。記事としては巨石のある土地を買うところから始まり、自分で設計した、というのがメインに来ていたが、ぼくはこの記事を「生活をしながら生活をつくる」典型例だと感じた。もちろん、氏は中途半端な環境で生活しながら生活をくみ上げていったわけではない。しかし、週末、つまり仕事以外の日を生活環境の組み立てに使用していたということは、ある意味でとても健全なのではないかと思う。もちろん、休息のためのレジャーなども生きる上では必要なことだ。だが、エンターテイメントや文字通り「暇つぶし」に値する娯楽で溢れている現代において、休息と仕事だけが人生に充実を与えてくれるものだとは全く思えない。そこには自らへの推進力が純粋には作用していない。
ぼくはこういうことを考えるとき、「生きるために生きる」ということを考える。生きるということの目的は何なのか。現代では「仕事」として業務は分断化され、全ての人は役割を担う。みんながみんな食べるものを作っているわけでもないし、家をつくるわけでもない。他人の行為を補うことで自らの行為を補ってもらう。その相互作用で世界は成り立っている。ここではひとまず、自らの生活の小さなことに気を配ることがどれだけ生活を豊かにするか、ということで受け取ってもらいたい。つまり、現代人の人生の大半を仕事、つまり他人のためのアウトプットに捧げるのであれば、逆に自らへの時間こそがもっとも高貴な時間であるとも考えられる。人生の推進力たるものは自らにどれだけの豊かさを与えられるのか、ということに尽きる。
John Carsonは休日を自分の生活環境の構築に当てるという、非常に贅沢で豊かな時間を過ごしたと思う。ぼくも氏と同じ気分を味わったと考える。実際,生活環境に手を加え始めた、と本棚をつくり始めることで実感し、自らの生活が仕事とは違う次元で動いている、ということを明確に把握した。ここには、時間の止まった仕事外の時間がない。言葉では何かしよう、と思っていても、それは単なる頭の中での思考であることが多いのに対して、「生活をつくる」といった積極性に溢れている。今、現在においてゴールイメージはあろうとも、生活において更新されるのは自然の摂理だ。しかし今あるイメージにとりあえず向かい、そこからまた修正していく、ということを体で、生活で実装している。

BRUTUS (ブルータス) 2009年 5/15号 [雑誌]

BRUTUS (ブルータス) 2009年 5/15号 [雑誌]