・仕事に就いて明確化した思考について

今のぼくの思考には二種類ある。すなわち、目の前の事象に対する思考と、現在との連続性を保った上での(時には連続性、整合性なしの)思考である。この問題系は産業とアートという問題系と相似する。直近の問題としては資格試験など、つまり仕事など現実的な問題と、学生のとき考えていた社会のこと、空間のこと、建築のこと。

限られた時間の中でこの両者のバランスを取らなければならない。そこに自らの環境は大きく作用する。正しく、時間は空間と密接な関係にある。空間をデザインできれば、時間もデザインでき、それは脳の切り替えも促す。このうち、仕事の場としては文句のいいようがない。このことに関していえば、あとはやるしかないのだ。
プライベート的には環境の構築が必要になるが、そこには資本が密接に関係してくる。また、仕事というものは常に努力しなければ、いかに抽象的な思考を発達させたところで自らを目標に位置させることもできない。

すなわち、全てが未成熟であるということを明確に意識しながら、完成形という誘惑でありかつ空虚を自らのうちから取り除きながら推進力を得なければならない。
完成とは思考停止を意味する。目標はあるべきであるが、融解されるべきなのだ。それは、想像的時間によるかもしれない。産業、資本主義の産物である企業で行うべきことは、50年間何も変わっていない。常にアウトプットを求めて、完成という暫定的な妄想的目標達成を繰り返す。ぼくはここで企業の行っている、行ってきた活動を否定しているわけではない。次のフェイズへの移行は必要でありながら、資本主義という社会を経験してしまった以上、もはや歴史的懐古主義は許されるべきではないということだ。
実際、時代的推進力は資本主義によってもたらされた。それが必要ない、ということには誰も賛同しないだろう。そこにある種の空白が必要であるというのが現在の要請である。ハイブリッド、両義性、第三の立場。形容する言葉は不明確ではあるが存在はしている。いつかは、この不明瞭さは解消されなかればならない。自らのうちで。それがどういう形でリアリティを得るのかは今のところ正直わからない。独立かもしれないし、企業内でのことかもしれない。
いずれかにしろ、そうでないにしろ、今は「そのための」準備期間であり、身の周辺のことに注力し続けなければ準備期間は終わらない。至極個人的なことで、当たり前のことではあるかもしれないが、これが仕事をし始めてから明確に意識したことだ。

最後に、準備期間の果てにある「始まり」も自分で確認しておきたい。それは何も現実のことなどわからない自分が、大学と社会の狭間で6年間考えたこでしかないが、自らの拡張としての組織と組織が貢献できる幅を見据えた活動をしたいということだ。学生の身分のときは夢物語でしかなかったが、それはもう眼前の壁を越えたところに広がっている。その根本的な意識は、「社会」という言葉の明確な分化にある。政治、宗教、そして次元は異なるが密接に関係するマスメディアのつくる「大きな社会」と自分の身の周りにある「小さな社会」だ。政治、マスメディアの引き受ける大きな社会の改良はそこを目的的にしたところでそこに回収されてしまうことは目に見えている。必要なのは、「小さな社会」の援用である。そこには個人的必然性もある。つまり、「小さな社会」のための行動がマスメディアとして伝搬するなどする時代的方向性。人はこれをボトムアップというかもしれない。企業でも最近では口にされる言葉でもあるだろう。しかし、ぼくはトップダウンありきの組織、典型的な資本主義的企業ではつまらないものになるだろうと思う。そこには必然的に拡大やトータルイメージという自らの保守のための行動が伴ってしまうからだ。
大きな社会にからめとられるのではない、自律的な組織、そこには個人的自律が前提として必要になるが、そういった個のつながりだけでできたような緩やかな組織体がぼくの目指すべき組織像である。

この組織像をまずは大目標として設定した上で、これからは意識的に自らのプロフェッションというか専門性を高めていく。ジェネラリストかつスペシャリストとして。そして根底的には自らの豊かさのために。社会的達成がぼくにとっての大きな豊かさでもあるから。

これからは、随時その詳細を報告していく。もう、抽象的思考に逃げる気はない。