・過去の自分の臨界点

おそらく、ぼくが今対峙している二人の上司、直属の上司とその上の上司は、社会人一年目としてのぼくにとって最適な上司である。それは会社側の意向で決定したのか、偶然なのか、はたまたこの年代の上司というのは絶対的にそう感じるものなのかはわからない。
しかし、ぼくはぼく自身の思考回路の中で、つまり外的要因としての強制因子なしに、独自の世界を崩された。プライドをへし折られたといい代えるのは少し語弊がある。根本からへしおられるのではなく、頭の中で考えていた世界、すなわち根本から導きだされ、環境から最も影響を受けやすい部分をいともたやすく、しかも強制的な執行力ではない力で撫で取られたともいうべきか。
組織としての正しさを振り回すのでもなく、社会の当たり前をぶつけられるのでもなく、ぼくはぼく自身の内側からの意志の発信を求められた。だけだ。それだけでここまで異様に大げさな言葉を描いてしまうぼくにも問題もあろうとも思うが、根本的にぼくの内側には「答えを求める」ことが当たり前に染み付いていた。それは自分の答えでなく、世間として、環境の中での答えだった。無条件にぼくはこの世界を悲観してしまっていたのかもしれない。1+1=2であり、それの連鎖でしかない、と。そうでなくとも、その当たり前を一度自分に受け入れなければならないと。しかしそれはぼくが今考えていること以上の位相に位置するようだ。まず結果を出してから考えなければならない。結果を出さずに考える事はこの世界で不毛でしかない。
日常はこの勘違いに気づかされる日々である。会社は結果を求める。結果「しか」求めないのである。スタートの0から結果の1までの間こそが、個人であり、ぼくなのである。

自分で自分の答えを考えろ、考えたのならやり通せ。それが社会の答えになる。

答えがある方が楽にきまっている。しかし、楽をしていれば、自分以外は納得しても、自分だけは納得できない。


それともう1つ。
同期で最も早く、契約をとりそうな人が出てきた。正直、それを聞いた瞬間ぼくはショックを受けた、というか自分より早くそんな人が出てくるということを想定していなかった自分に気づいた。
ここからもわかるように、ぼくはおそらく自分が何でも一番だと思っている質だった。それを考えるとぼくはここで一番になること、もしくは一番ではないかもしれないということを知ったということはいい意味で避けれてよかったのではないかとも思う。というのは、絶対に調子に載るからである。調子にのるというのはぼくの場合、簡単に結果を出せてしまった反面、そのプロセスは瞬時に抽象化され、結果のみが先立つということである。この場合、次からはその過程を乗り越えるために結果をうまいように導きだせはしないだろう。
だからといってプロセスをじっくりやって自分なりに納得の行く取り方をできればよいかというとそうではない。そんな悠長に待つ会社もないだろうし、自分のやり方ででき、さらに最短で取れるほどの密度を毎日の中で繰り返さなければならない。

結果的に、前述したぼくという存在と思考法を最大限に尊重しようとする上司と、今、一番ではないかもしれないと思えた2つの偶然の重なりは、ぼくのこれからの最大の糧になるようにも思える。