・江戸川区の歴史

建築というものを商売にしていると、地域のことをわからなければ話にならない。といいたいところだが、そうでもない時もある。そこにとてもマス的な感覚を感じるのだけれど、実際その建築の目的によって、そして人によってはそういうことが多いのだ。そこに建築は否応なく媒介にされるというだけで、本来の目的は全うされない。つまり、相続税に関する土地評価を下げるためだけ、または固定資産税の減額のためという数字のための方法であるのだから、不動産指標における価値の高さだけで納得もできるというものだ。
そもそも、なぜ今のような税制になっているかは今のぼくには知る由もない。追々調べていきたいことではあるが、最近やっと自分のしたいように仕事ができるようになってきたこともあって、少し自分なりのプロセスで仕事のことを考えている。税制の勉強も、不動産の勉強も、もちろんしなければならないのだが、ぼくにとって一番最初にしておかなければならなかったことは地域のことだった。それを3ヶ月経つまでやらなかったのには諸事情があるが、毎日のように走り回っている地域を知らなければ,いつまで経ってもぼくの足は地に着かない。そこで今回は江戸川区のことを調べてみたのだ。


最初の印象では正直、郊外というか東京とは言いがたい印象だった。それも、大型書店がないことやスタバやタリーズのないという商業的傾向から言えることであったのだが。しかし東西線の葛西や西葛西という場所は日本橋へも十五分という上に地域としてはベッドタウンとして良好な環境である。一つに、公共施設のサービスの多さがある。コミュニティセンターや図書館といった公共の整備する環境は多いし、親水公園やレクリエーション施設も充実している。休日に充実する商業施設を望まなければ、住むには良いところである。しかし一般的に「郊外」と表象される地域はニュータウンの印象が強い。高度経済成長期に人口増加を受け止める器として開発された地域のニュータウンに対して、縄文、弥生から農耕を行ってきたこの地域には歴史がある。それは利便性を主に作られた一般的な郊外ではなく、中心に従属しながらも自律性をもつ傾向が伺える事ではあるまいか。

農地
古代からの農村社会であった江戸川区は、江戸時代も37の村は全て農民であり、昭和20年の終戦までは農地が過半数であった。平坦な地勢で河川が縦横に流れていたため農業に適地で、「葛西3万石」と呼ばれる程の地域であった。
しかし経済成長による総合的な土地開発のために昭和43年の都市計画法、48年の地方税法で農地への宅地並み課税が課せられる。この税制によって農地の100から200倍の税がかかることになる。
そこでは宅地並み課税撤廃運動がおこり、対応して政府が48年に生産緑地法、57年長期営農継続農地制度、平成3年新生産緑地法を制定、農業への緩和を行うが、江戸川区の現状は平成8年生産緑地面積46,31ha、専業農家99戸となっている。野菜では小松菜、つまみ菜、春菊を主とし、他にも朝顔、ほうずき、プリムラサイネリアの生産を行っている。農地と宅地%の割合は昭和28年では59.9%と31.8%の比率が6:3であったのに対し、昭和45年には32.6%と55.9%と3:5になり逆転している。宅地並み課税時は14.5%と73.4%と大幅な開きが出ている。

台風
江戸川区と水の関係は強い。農耕をしてきた場所であるとともに、台風などの災害によって大きな被害を受けている。1947年(昭和22年)のキャスリン台風は、600mmを超える記録的豪雨となり、主要河川は大増水した。このときの被害状況は浸水面積約が60%、床上浸水約20,000戸、床下浸水約10,500戸、死者1名、負傷者143名。罹災者は人口の70%の1,330,000人であった。東小松川一丁目が最大の浸水地域で、最高水位は2m30cmである。
また、1949(昭和24)年のキティ台風は罹災者62,324人の内負傷者202人、家屋全壊47戸、半壊27戸、床上浸水9,400戸、床下浸水3,145戸、田畑冠水は980町歩に及ぶ。

人口増加
江戸川区が現在のような宅地ばかりの地域になる以前は、蓮田が広がる田園地域であった。水位が低く、「江戸川区は人が住むところではない」やら「江東ゼロメートル」やらと自然の地形としての詐称があったほど水災害との関係は深かった。それが現在においては人口が増えるなどの環境が整備された背景には、中里喜一の活躍がある。
中里喜一は唯一の江戸川区名誉区民であり、日本の大きな構造転換の中で江戸川区も変容が迫られた時期に区長となり、都市施設の整備など現在の江戸川区の根本をつくった区長である。
昭和25年に朝鮮戦争勃発し、特需から日本は高度経済成長期を迎える。第一次産業から第二次、第三次産業パラダイムシフトされ、地方から都市への人口流入が相次いだ。その人口流入のピークである昭和30年代に区長に選ばれたのが中里である。江戸川区の人口変遷の概要は以下の通りである。
文政12年   推定人口     21,000人
明治5年     初の戸籍調査   25,000人
大正9年     第一回国勢調査  39,000人
昭和7年     江戸川区誕生年  100,000人
昭和22年   特別区23区    176,000人
昭和32年以降 年間平均10000人増加
この文章中では特筆していないが、中里は人口増加に伴う都市基盤の整備に対して公害という負の側面にも真摯に取り組んでいる。「三大公害問題」と呼ばれる昭和45年の葛西沖ごみ追放闘争(道路封鎖)46年の航空機騒音闘争(昭和48、1月和解)、47年の成田新幹線建設反対闘争(昭和53裁判終結)である。


「中里ビジョン」
この人口増加から、江戸川区ではいくつかの問題が発生する。中里が区長になたったときの段階では江戸川区はまだ田園風景の広がる地帯であったためだ。1964(昭和39)年に就任した中里は「雨が降っても長靴をはかないまちづくり」をマニフェストに、基盤整備を公約とする。
人口流入の影響からの具体的問題は民間による無差別な乱開発、農地の無計画な宅地転用、道路の整備、電車バスなどの公共交通機関の整備、小中学校の建設、下水道整備など主にインフラストラクチャーの未整備であった。その問題系に対して中里は「中里ビジョン」として以下の政策を押し進める。
① 新川以南800ヘクタールの区画整理事業
② 葛西沖380ヘクタールの埋め立て事業
③ 下水道早期完成
区道及び都市計画道路の整備
東西線と英新宿線の誘致促進
⑥ 地下鉄早期完成
⑦ 英気前広場造成、交通網再編
⑧ 緑と公園の増設
⑨ 大規模団地の指導調整
⑩ 大型区民施設、地域型公共施設の適正配置
⑪小中学校の新設、鉄筋化

区画整理事業
江戸川区区画整理事業は組合施行で行われた。区画整理事業の手法としては他にも行政施行などがあるが、行政施行は年度の予算で勧めていくのに対して、組合施行は金融機関からの借り入れによって事業を進めていくことができ、住民によるまちづくりができるという利点と、スピードに絶対的な利点がアドバンテージがあった。
指導、資金援助、技術援助などを「開発課」を新設して実行し、官民一体を計る。昭和40年5月から建設大臣の指定を受けて六組合の事業組合が成立、実施。さらに他でも機運が起こり、区内のおよそ1/5、1000haで一斉進行。葛西沖にも援用され、380haを埋め立て、清新町、臨海町の町が誕生、葛西臨海公園下水処理場なども完成させる。
特に、昭和44年の東西線葛西、西葛西駅開通、昭和61年都営新宿線船堀、一之江、瑞枝、篠崎開通。このとき中里区長は地下鉄を全て地上駅にし、本来であれば開場口をつくるだけのものを土地区画整理により駅前広場を創設した。駅は街の発展の核になることからである。

道路
公約にも表れる水に対する意識は,区長就任時は約5割が砂利道であったことからでもある。都市計画道路や4m道路などの整備は昭和42年に総延長70万km、昭和60年には88万km、平成7年には100万kmとなっている。
各主要道路は昭和35年京葉道路、昭和46年の高速7号線、昭和59年の環状7号線区内前線、昭和62年には首都高速中央環状線が開通している。
これに伴い道路率も昭和42年に8.1%だったのが昭和60年には13.3%、平成7年には16.8%になる。

下水処理
中里の就任時、江戸川区の下水処理施設の状況は砂町系処理場平井地区の0.3%のみであった。中里は昭和48年に下水道課を設置、昭和60には54.5%、平成7年には99.7%と一部工事不可能な場所を除き、区民に供給されている。


親水公園
インフラ整備の一環として、江戸川区から外せない項目が親水公園の整備である。昭和30年代から排水や工場排水の流れ込みによる死の川と化していた。そこで昭和47年「環境をよくする十年計画」の中に「江戸川区河川整備計画(親水計画)」を策定。
古川親水公園から着手した。全長1.2km、幅10mのものを川幅2mに縮め、樹木で彩られた散歩道を創設。滝や島などをつくって変化を持たせた。この工事に対して昭和49年に全国日本建設技術協会から「全建章」を受賞している。写真:古川親水公園(江戸川区HP)
平成21年には親水公園親水緑道整備計画は完成を迎えている。種類は親水公園と緑道があり、区内を水と緑のラインが走る。このことによって区内の環境は確実に促進されている上、親水公園の名前を冠したマンションなどの建設されるようになり、都市空間としてのアメニティは他の区より向上している。
親水公園は以下の5本である。
① 古川親水公園    1200m  昭和9年完成
小松川境川親水公園 3930m  昭和57完成
③ 新左近川親水公園  750m  昭和59完成
④ 新長島川親水公園  530m  平成3完成
⑤ 一之江境川親水公園 3200m  平成7完成
親水緑道は18路線あり、述べ長さは17.7kmに及ぶ。葛西親水四季の道(2100m)左近川新水力堂(2000m)などが平成に完成している。
 
 親水公園配置(江戸川区HP)
 親水緑道配置(江戸川区HP)

江戸川区開発公社
江戸川区では地価上昇に伴い、ユニークな方法で公共用地の確保を行っている。それが開発公社の設立である。不動産神話が生まれつつあった江戸川区においては業者に買い占められる危険性があったため、学校、道路、区民施設の用地のための先行取得を行った。
昭和53末年で308000m2、257億円近い額を土地の購入に費やした。昭和61年にはバブルによる地価暴落の恐れがあったので新たに用地取得基金を設けてそれ以降の用地取得は同資金にするとし、開発後者所有の土地を全て処分、活動を休止した。
開発後者の土地取得総面積は約509000m2、取得金額は515億9260万円。この公社は平成12年、債務を「全く残さず」解散する。

「福祉の江戸川区
江戸川区は福祉が充実していると言われる。労働人口ばかりでなく、老後を送る人びとや育児を行う人びとへの配慮がきめ細かく策定されている。
それらは全国初の高齢者事業団の創設、生き甲斐センターの開設、特別擁護老人ホーム老人施設の建設、ヘルパー派遣、高齢者用住宅改造、特別擁護老人ホーム、老人福祉電話、リズム運動、保育園、保育ママ制度、公私格差のない幼稚園保育料助成と多岐に亘り、さらに当時として画期的な策定ばかりであった。

地域コミュニティの育成「事務所制度」
区内を6ブロックに分割、大ホール、集会室、和室などの併設の施設を建設する事によって、より小さな地域での行政を可能にした。「環境をよくする運動」の拠点にもなり、地区協議会を結成、その下に地区小集会を儲け、環境をよくするための目標と計画を自主的に作成させることによって、実践活動にむすびつけた。自治会活動、区民祭、地域祭、花火大会などの成果が今でも継続的に行われている。
平成7年に自治大臣表彰、9年には区長個人で受賞している。また、環境面では生活環境向上のための「環境課」設立している。これは環境省設立の1年前、23区内で初となった。

高齢者事業団の設立
目的は働く意欲をもっている健康な高齢者がその経験などを活かして相互に協力、地域社会と連携しながら働く機会を得て生活の充実を計るとおもに地域社会に貢献することである。
特徴としては会員組織であり、会員の自自主運営であることから就職斡旋所とは違うことである。
事業内容は区や都から発注される公園の清掃や公共空き地の除草、学校の夜間警備など民間からは植木剪定、手入れ、ふすま張り替え,ベランダなどの塗装など職種は36種類あり、技術、能力に合った仕事を選択できる。

幼稚園
私立幼稚園保護者への負担軽減による負担格差を除く。公立幼稚園を増やすべきという意見に対しては無理して新設をおこなったとしても将来的に子どもが減った場合にそれらを簡単につぶすことはできない。出生率の低下を予測した上で公立私立の保育格差をなくす方式を選んだ。

以上のように、江戸川区は水害の激しい農耕地域から高度経済成長に伴い中里喜一という区長によって現在の姿がつくられている。公共サービスやインフラストラクチャーの整備には現在も中里の意志が反映され、その交通の良さなどから人口の増加などに繋がっている。これは何も立地だけの問題ではなく、区民の生活を最優先に考えた結果としての行政であろう。

参考文献

江戸川区史 (1955年)

江戸川区史 (1955年)

親水工学試論

親水工学試論

『概説 江戸川区の歴史』 木村秋夫著 2010年7月10日 郷土歴史同好会