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フェイスブックに関する物語を読み、見た。
ぼくの読んだ本はエデュアルド視点で描かれ、映画ではマーク視点。映画は数十分に収めるためか、少し急ぎ足な展開方法ではあったが、書物の方を読んでいれば構成が変化しても伝える事の本質は変わらないように思えた。
現在、史上最年少の億万長者であり、かつ第二のビル・ゲイツであると言われているマーク・ザッカーバーグのサクセスストーリーであるようにも観客は感じる事はできるが、かつての友人であったエデュアルド・サベリンはマークに騙されて共同経営者から外されたとしてマークを起訴、ハーバードの上級生である起業家はフェイスブックのアイデアを盗まれたと起訴。その人間模様がこの物語の芯をなす。

内容はともかく、これは観客に対しての提起であろう。誰が悪いなどということはここでははっきりしない。ただ物語上の完結はある。それだけだ。

マークというギークをビジネスに持ち込むための危険要素としての一面を垣間みた。ギークは、コードを書く。それを広めるために資本家がいる。これは描き方が全てではあるが、マーク以外の人物(ショーンを除く)は全て交換可能であるようにも思える。少なくともマークの目からするとビル・ゲイツとショーン以外は描かれる情報が少なすぎて「そうなっても仕方ない」という感覚さえも抱く。マーク自体は完結した自律した人間性をもち、その持ちうる能力を資本主義に乗せるだけの力はなくともプログラムの意味での推進力は抜群であり、「誰かが」そこまで連れて行ってくれるだけでいいのだ。この見方には賛否両論あるだろうが、現実問題、「その他」になってしまった者にだけはなってはいけないという警告であるようにも読めた。

投資家/プロデューサーなど呼称はいくらでもあるが、資本とコンテンツを結ぶその役割にはプロセスと結果(成果物)を直接的には結びつけない大きな落とし穴があり、それを飛び越えることすら困難である。ぼくの立場上、エデュアルドだけにはなってはいけない。

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