「アートスコープ2007/2008」- 存在を見つめて @原美術館
 この「アートスコープ」展は、今年5年目であり、現在は日本とドイツのアーティストを毎年1名ずつ選び、それぞれがベルリンと東京でアーティスト・イン・レジデンスを体験するエクスチェンジプログラムである。そのプログラムに参加したアーティストの展覧会を企画・主催していて、今年が3回目になるということだ。
 日本からは照屋勇賢、加藤泉。ドイツからはエヴァ・テッペ、アスカン・ピンカーネルらの作品が展示されている。加藤は69年生まれ、その他の作家が73年生まれという若手作家の代表展とも言うべき展覧会だ。
日本人作家である照屋勇賢の作品は枝で作られた文字、領域を作り出す浮き輪から出るロープが印象的だった。別の事象に代用されながらも一つの自我を持ち続けるような、物の強さを表現しているように思う。
 一方で加藤泉の作品は頭部や目、筋肉のような筋の強調されたドローイングと彫刻。虫なのか動物なのか人間なのか。また進化過程なのか進化結果なのか全く判別不可能だがそれは生命に満ちあふれた生きるために生まれて来たような新鮮な生物だった。
 ドイツ人作家のアスカン・ピンカーネルの作品は建築学生にとってまだ身近に感じれる作品だろう。氏はミュンヘン工科大学で建築を学んだとしているがそれが一目で分かるような透視図であった。ハンブルク芸術アカデミーで芸術をも学んだ氏は、建築のみを描き、背景、人物など通常プレゼンテーションで使用される要素をことごとく抹消している。これはコルビュジェの雑誌掲載前に写真から敷地や無駄なものを省き、オブジェに近い形としていたことに似ていよう。しかしピンカーネルの場合それは元からある訳ではない。描かないことで背景や人物などを想起させるような作品なのではないか。建築というのは絶対的に前提条件があり、オブジェとしてしか存在しないことはない。それはオブジェなのだから。
 もう一人のドイツ人作家のエヴァ・テッペは極度なスローモーションの施された映像作品である。図録に解説を寄せている安田篤生によるとタイトルからの暗示と、リュミエール兄弟の映像に回帰してて膨大な隠喩を孕んでいるとしている。しかし、ぼくにはこの作品の意味がさっぱり意味が分からなかった。